浅井三姉妹の清水谷
大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」は、「関が原」を迎えいよいよ佳境に入ってきた。この放映にあやかって、平成23年1月15日(土)~12月4日(日)の限定期間、浅井三姉妹博覧会が模様され、ドラマのロケ地や城跡を巡る小谷城バスが運行されている。
友人然り、家内も、また大勢の観光客が、長浜駅から「江・浅井三姉妹ドラマバス」で出かけていった。だが、私にはこのコースを辿ることに全く興味がなかった。
さて、この物語が終わるまでに、浅井三姉妹の誕生の地に訪れてみたいと思っていた。お市は兄信長の命で政略結婚とはいえ、浅井長政に嫁いだが、夫婦仲がよかったのであろう。茶々、お初、江の三姉妹をもうけている。
浅井長政は北近江を統治し、小谷城に住んでいた。平時には麓に家臣や民衆と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。したがって、日常生活をしていた麓にある居館に親しみを持ち、そこを訪ねてみたかった。 不便な険しい山に造られた山城でなく、お市と、三姉妹が日頃暮らしていたと推察される清水谷に興味があった。そこは観光客も行かない、ひっそりとしたところであるが、浅井三姉妹が生き生きと暮らしていたところと思った。
ここにどうしても行きたと心が騒いだ。が、友人を誘っても、相手にされない。仕方なく一人で北国脇往還道(現在の国道365号線)を通り、清水谷に向かった。

小谷城戦国歴史資料館辺りから山並みを眺めると、右から尾根が張り出し、正面に最も高い標高約495m小谷山をむかえ、左へ尾根が下がってくる。清水谷をぐるりと取り囲むように山並みが続いていた。「ここが、日本五大山城の一つに数えられる大名浅井氏の居城として知られたところか」と山稜を見上げながら、戦国時代に想いを馳せた。織田信長に攻められも中々落城しなかった堅固な山城であった。4年間も攻められ、最後に浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られるところである。・・感慨深かった。

今は、清水谷には、杉が植林され森林に覆われ、一本の林道が淋しく奥へ奥へと延びていた。
この清水道から直接、三姉妹が居館したところに行かずに、追手道を通り本丸、二の丸によって、六坊から搦手道を下山して居館に迫ってみた。
追手道を辿って、出丸裏を経て、尾根上の登城道につながりまず、番所跡にむかった。
人の声がして何だか賑やかになったと思ったら、「番所跡」であった。「小谷・江のふるさと館」から小谷山中腹のまでシャトルバスで来られるところである。ここから先は全ての人が徒歩となる。
NHKの大河ドラマでも、ここから浅井長政とお市が琵琶湖を眺めるシーンがあった桜番場跡にやって来た。大河ドラマの撮影も実際にここで行われたところである。ここからの眺望は、琵琶湖の竹生島はもちろんのこと、伊吹山まで見られる。目の前には虎御前山。織田信長が北国脇往還道を挟んで対峙した山である。

本丸・小丸跡を通過していった。途中、シャトルバスで来られた拡声器を持ったガイド付きの一行と出会った。長政が落城していく様子を聴く事ができた。
「羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功した。その日のうちに小丸を落城させ、久政は自害した。さらに次の日には本丸も落ち、長政は本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡した」。
六坊という分岐点から大嶽(おおずく)城には行かず、清水谷方面へいく搦手道を下山していった。小谷城の最高所を占めている山王丸では人に出会ったが、ここまで来ると静寂。セミの鳴き声だけが無性にやかましい。この辺り、熊の生息地でもあるので、どんどん下っていった。 結構険しいところに、崖を削ってできた家臣達の邸跡があった。苔むした八畳岩、蛙岩の巨岩を通り過ぎ、下り道が平坦になったところに「御屋敷跡」という石碑が立っている場所にでた。
平穏時、長政もお市もそして三姉妹がひと時の平和な時を過ごしたと思われるところだ。今は、杉が植林されて、深々寂々とし、人居を遠く離れた寂寞たる別世界であった。

今回は、時間的な都合もあり小谷城の山城を駆け足で回っていった。次回は大嶽城跡を通り、福寿丸跡・山崎丸跡を訪れ、特に山城マニアが行く月所丸には是非寄って見たい。周囲を土塁が取り囲み、尾根筋には堀切三つが切られる厳重な備えとなっているらしい。
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