大阪の「4ツの渡し場」ウォーク
2010年03月01日

大阪の「4ツの渡し場」ウォーク

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nonio

• 野洲市

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 大阪河口域には、「水の都」と呼ばれてきただけあって、大阪湾に多くの川が流れ込んでいる。それらの河川には、かなり古くから人々の往来のための船渡しが行われてきた。昭和の初期には、渡船場は31カ所あったが、次第に廃止され現在はベイエリアを中心に8カ所のみ現存している。この中の「4ツの渡し場」を訪れるフォトウォーク(レイカデア主催)が開催された。
 下町の風情を残す街並みを見ながら、普段着の大阪を味わう一風変わった企画である。特に、船渡しは、単なる観光用でなく、立派に庶民の日常生活の足になっていることに興味を抱いて参加した。

 2月中頃、JR草津をバスで出発し、大阪河口域にある安治川、尻無川に向かった。まず、訪れたのは、安治川河底隧道である。以前、西九条地区と九条地区の間を結ぶ源兵衛船渡しが行われていたところである。

 当時、安治川は河川舟運の重要航路で運搬船が行き交っていた。ここで、船渡しも行われていたが、航路を横に遮ることが問題になった。この解消策として、全国でも類を見ない河底トンネルが、計画され、1944年(昭和19年)に竣工された。約14m下に幅約2m、長さ約80mの通路。

 古びた5階建てのビルの前に、何人ものヒトがたむろしていた。みんなエレベータがくるのを待っているようだ。扉が開くと、先客たちが降りると同時に、自転車を伴ったヒト達が、一斉に乗り込んでいった。毎日行き来している皆さんは、手馴れたものでスムーズであった。

 我々は、日常生活されている人々に支障をかけないようにとの配慮で、階段で下っていった。当時、画期的な河底隧道であったに違いないが、階段は急勾配のつくりで、やっとの思いで川面下の通路に辿り着いた。 内部の通路は往来するヒトが触れそうな手狭である。警備員が立っており、行き交う歩行者・自転車の交通整理を行っていた。不思議な空間であった。
 朝夕のラッシュ時には1時間あたり約250人の利用者があると言われている。なお、エレベーター運行は午前6時から午後12時まで。但し階段は24時間開放されているので、階段を昇降可能な歩行者ならいつでも通行できる。利用料は無料。当初は自動車用のトンネル部分もあったのだが、1977年に廃止されている。現在は、歩道用通路だけ利用されていた。

 さらに、JR桜島駅付近から7.0kmのウォーキングを開始し、順次「天保山渡し・甚平衛渡し・千歳渡し」を訪れ、昔の船場のあった大阪を偲んだ。  
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案内はこちら

天保山渡し(桜島~天保山間 毎時0:30分間隔)
 「天保山渡し」は安治川の河口にあり、近くの此花区と港区を結ぶ「渡し」である。阪神高速5号湾岸線天保山大橋が正面に見えるスロープを下っていくと、待合室があった。覗いてみると、大阪市営渡船であるので、券売機も備え付けられていない。

 ここにはベンチが備え付けられていたが、誰も座っていなかった。
ほとんどのヒトは船着場で「船が今か今か」の思いで立っていた。 急いでいる様子の通勤風のヒト、二人連れの話しているおばちゃん、自転車をもっているおじいさんなど様々の人が船を待っていた。
 することもなく、距離にして400m程度の対岸を眺めていると、僅か左手方向に相手側の船着場があった。正面にはひときわ大きい、優美な船体をした客船が停泊し、小型船が寄り添うように給油をしていた。
 やがて、80 人乗りの渡船がやってきた。結構ヒトが乗船していた。船が行き過ぎるかなと思われる位置から、「ぴたり」と浮き桟橋に付けた。さすがに上手だ。乗客が降りてくると、前のゲートが開けられ、ぞろぞろと出てきた。これと入れ替わりに、我々が乗船して行った。乗り終るや否や出発した。日常30分毎に繰り返されている光景である。

 港区に来ると、日本一低い山として密かな人気のある天保山(標高4.5m)に行かねばならない。

 江戸時代、安治川の船の航路を確保するために、川底の土砂をさらえ、積み上げてできた山である。当時は高さも18mくらいはあって、付近を行き交う船の目印となった。名前が「目印山」と命名された。しかし、時代と共に標高もだんだん低くなり、大正初期には7.2m、昭和50年代には5mを割込み今に至っている。
 庶民は、天保年間にできた山なので、「天保山」と呼ぶようになり、正式名が「天保山」となったのだとか・・。 大坂町人の寄付金と奉仕の労働によって出来たところで、桜が植えられたり、茶店が設けられ、「天保山百景」と名付けられ庶民から大事にされたところだ。

天保山公園で昼食を食べて、辺りを散策してサントリーミュージアムに集合し、再び「甚平衛渡場」がある尻無川を目指した。

甚平衛渡し(福崎~泉尾間0:15分間隔)
 川幅94mの尻無川は、狭い。船の走り方が全く分からない。変な方向に走ったかなーと心配していると、舵を取り直し、突っ込んでくるような勢いでこっちにやってきた。そして「あっと」言うまの接岸である。長年の経験で船の処し方を会得していた。

 船は、図体が大きいのでままならず、S字を描いて運行していたのだ。

 「甚兵衛渡船場」は、昔ハゼの木が数千本も植えられ、紅葉の名所であった。この辺りでは、しじみ、はまぐりが獲れ、甚兵衛渡しの小屋は「蛤小屋」と呼ばれていたそうな…。200年ほど前、今で言う観光案内のガイドブック『摂津名所図会』には当時の様子が描かれている。

 この大正区は、大正初期まで周囲が水に囲まれたのどかな農村地帯であった。水路を行き来する小船や、尻無川の渡しが重要な交通機関であった。だが、現在では高い防潮堤が築かれて、コンクリートの護岸が川筋を取り巻く光景となった。唯一名残を留めているのが人名の「甚兵衛」だけのようだ。

 フォトウォーク最後の渡船場、「千歳渡し」にやってきた。 

千歳渡し(北恩加島~鶴町間 毎時0:20分間隔)
 この辺りは、入り組んだ複雑な地形だ。尻無川を横断しないで、大正内港を370m横切るような渡しである。この渡しに並んで、青く塗装された新千歳橋がかかっていた。上部アーチ部分の骨組からワイヤーが伸びた吊り橋は、海面から高さ28m、橋長365mの大型橋である。

 「かっこ」を構わないで便利さを求めた船渡しと最近完成したモダンな大型橋も包み込んでしまうことが実に、大阪らしい。小生、大阪生まれであるので、よく分かる。

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