守山長刀祭り
2010年05月20日

守山長刀祭り

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nonio

• 野洲市

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 5月5日(水)仲間4人で「守山長刀祭」の本祭りに行った。子供の頃、祭り太鼓の打ち鳴らす音が聞こえると、学校の授業も「うわのそら 」。やっと学校を開放されると、おみこしについてまわり帰りが遅くなり、怒られたものだ。

 祭りは、久しぶりだった。行く前には、「まあーいくか」と言う気分であったのだが、みこしを懸命に担ぎ、体を桜色にした「フンドシ」姿を観ていると血が騒いでしまった。 結局、杉江町の小津神社から赤野井町の若宮神社までのお渡りについて行き、朝10時出発して夕方18時に戻ってきたことになった。子供の頃と一向に変わっていなかった。

 日付 2010年5月5日(水)

 場所 守山市杉江町~赤野井
 本祭 小津神社から小津若宮神社の御渡 奉納芸能「長刀踊り」
 コースタイム 
 小津神社11:10 大鳥居11:30 小津神社御旅所 11:50 小津若宮神社12:40
 小津若宮神社出発15:30 小津神社御旅所16:30 大鳥居5:30 小津神社18:00

 大神輿3基、子ども神輿2基が小津神社に勢ぞろいした。神輿は、名前が付けられ大宮・二之宮・三之宮である。宇迦乃御魂命(うがのみたまのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、大市姫命(おおいちひめのみこと)二ノ宮と三ノ宮は夫婦で本宮はその息子なのです。

 今回の担ぎ手は赤野井町が担当で、担ぎ手の鉢巻の色は、大宮が白、二之宮が黄、そして三之宮が赤に区別されていた。

 お祭りの先陣を切るのは、「鉾持ち」である。長い青竹を上下にたわませながらしっかりとした足取りで出発していった。続いて3名が一組となって太鼓を担ぎ、その脇のヒトが叩いていた。その後に3基の神輿・2基の子供神輿が続いた。小津神社から、隣町の赤野井にある小津若宮神社の渡御が開始された。一同は、小馬場・大馬場を通って大鳥居に向かった。

 直角に折れ曲がった参道を通って小津神社の鳥居で第一回目の休憩となった。 
 ここでは往来の激しい浜街道を横断するため警察・消防の係員が交通整理を行っていた。
担ぎ手は、小津神社で出発にあたり一升ビンをたらい回しにして、お神酒を頂いていたが、ここでも、酒を飲んで英気を養っていた。ここから、田園地帯を通ってかなりの距離を担ぎきり、小津神社御旅所までの長丁場に備えていた。

 田んぼの中、鉾持ちを先頭に一番の神輿が三之宮。続いて大宮、最後に二之宮の順番。威勢のよい掛け声をしながら定められた道を、再び進んでいった。陣笠を被った袴に裃(かみしも)をつけた祭りの責任者が最後尾を勤めた。

 赤野井の番場通りには、桟敷が設けられていた。杭木などで組んで、神輿の暴れるのを避けたりするためのもの。道路沿いに差し込む穴まで用意されていた。
内側に呼んだお客の見物をする慣行があるようだ。
 この通りには二階建ての家が建ち並んでいるが、当日は上から見下ろすことは許されない決まりがあるようだ。

 鉾持ちの衣装は、一文字笠・黒の足袋・タチツケバカマと言う姿で腰の後に鎌をさしている。
鉾は、日の丸扇子を結わえ付け円形にし、その先にシデなどを長い竹につけている。この竹の両先端はゆらゆらするがこの揺れの調子に合わせて歩いてきた。鎌は、白い布で覆われていたが、もし、神輿が先に行くようなことがあったら、直ちに鉾の先を切って持ち帰ってもよく、そうなったら、祭りはやり直しになる。それだけの権限をもっていた。

 環御が始まった。若宮神社には、十字路があり、各々の神輿が練り歩く。三之宮は女性の神さんで、「里帰りして戻るのを嫌がって」行ったり来たりして中々帰らない想定になっているらしい。 ただ、馬場通りの役員が座っている役桟敷が設けられているが、そこを通過すると二度と戻れない箇所がある。担ぎ手は戻ろうとし、陣笠を着けたヒトは前に進めとの指示をする。この駆け引きが結構面白い。これで通過したと思っていても再び戻ってくる。こうなると見物人からどよめきがでる。結構楽しい。

 神輿の練り歩きが終わると渡御行列が始まった。10人ほどの一行が出てきた。「ようほい」との掛け声をかけて扇子を勢いよく上げたり、また歩みを止めたりしてゆっくりと進行していった。この奇妙な仕草が興味深い。今年の当番担当は、石田町・十二里町で役員・長刀・稚児を含めて総勢170名参加。2町挙げての参加に改めて「ご苦労さん」と言いたい。祭りが最高潮になると、見物客もどっと繰り出してきた。

 裸で褌(ふんどし)をしめ、脚絆に滑らないように縄を巻いた地下足袋の勇ましい姿である。
神輿1基の担ぎ手は、28名。補助を含めて34~35名。疲れた者が順次神輿から離れ、回復した者が入れ替わり担いでいた。
 担ぎ手は、段々体力を消耗し、左側右側の力バランスを欠き、神輿は真っ直ぐには進まず、あっちに行ったり、こっち行ったりとなった。


 大鳥居を越えて、三之宮神社近くまで戻ってきた。山賀桟敷から「しょもう」との声がさかんにかかった。これに応えて、次々と長刀踊りが行われた。
一礼して、長刀を地面につけて大きな円を描くような仕草をした。
 踊り手が長刀を水車のように廻したり、長刀を両手に持ってその中を飛び越えたり、長刀を軸に体を回転させたり、上空へ放り上げ片手で受け止めるなどなどを披露した。失敗して愛嬌、むしろ盛り上がっていた。 最後に、長老の長刀踊りが行われた。
さすがに長老サバキが巧いが、両手に持って中飛びが出来なかった。拍手喝采であった。
ここは、特別な桟敷であった。
小津神社地図

 ここ、小津神社周辺を取り巻く集落は、野洲川流域に広がる堆積平野に分散し、ひとつの集合体をつくっています。この辺り一帯は、野洲川が運び込んだ肥沃な三角洲が広がり、おもに野洲川の伏流水を水源とした守山川、金森川、山賀川など流れています。
 これらの小河川は、古来の条里地割に沿って農業用排水として網の目に巡らされています。稲作農耕には欠かせない水を通じて強く結び付き合った村々が点在しているのです。金森、三宅、大林…山賀の各町は、野洲川の旧河道、境川沿いに列状に繋がっています。まさしく、上流から下流へと水路につながった集落が形成されています。小津神社の氏子は、かって吉身、守山なども含めて18カ村もありましたが、現在11町。

 昔から野洲川は通常時でも表流水が少なく、日照りが続くと、川には水がなくなってしまう流域です。古くから少ない水を巡って、水争いがたびたび起こってきました。この地の米つくりの歴史は、水争いの歴史と言われたところなのです。

 このような背景から、この祭りは、人々が水争いにならないため、お互いが団結して仲良く暮らしていくため、昔の知恵者の仕掛けなのでしょう。この祭礼に当たっては10条の「県社小津神社例祭規定」が設けられ、みだりに改造を加えることも許されないと定められています。 こうして長い間育まれた祭礼が今に伝えられている、近江ならではの文化の一端を見る事が出来ました。

 村中の年寄りから子供までが集まり、「チキチン チキチン チキチキチン ヒャー ホイ」と調子のよいお囃子が、今でも耳にこびりついていました。

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