印象深い「やばせ」道標
私は山にいきますが、案内板、道標には注意深く確認をしてきました。山でひとつ谷筋をくるう些細な間違いであっても、次第に大きくずれはじめ、とんでもない危険なことに遭遇してしまうことも多々ありました。このような事から、街中の道標であっても、ついつい観てしまい慣れ親しんできました。最近では、変体仮名にも興味を持ち、古い道標に関心を持ち始めました。
近江は地形的に、京都、伊勢、美濃、敦賀、小浜などに通ずる位置にあり、東海道、中山道、北国道、更に八風街道、朝鮮人街道、北国海道などの数多くの街道が多く貫通しています。そこには、旅人のために道標が建てられました。

古きよき時代の旅人になった気分で矢橋(やばせ)港を目指した事がありました。草津本陣から、東海道を南へ進み、立木神社を越え、更に歩んでいくと、矢橋街道との分岐点に「 右やはせ道 」の道標がありました。瓢箪の商いをしている瓢泉堂の店前です。
道標は、 建てられて210年経ち、下の字が崩れ始め、分りにくくなっていました。後で調べてみますと、「 是より廿五丁 大津へ舟わたし 」 と刻まれているらしい。
丁とは、尺貫法における距離の単位で、1丁は、約109メートルです、廿とは、これは「十」を二個組み合わせた合字、二十のことで、廿五丁は、2.7kmです。つまり、「琵琶湖方面へ約3km行けば、大津まで舟で」と旅人に案内がされていたのです。
かつては、ここが、老舗の「姥が餅屋」あったところです。
「 瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅 」と俗謡はここで唄ったものです。
当時、どっちに行こうか思案しながら、旅する人達は、茶店の縁台に腰をおろして、一杯の緑茶と乳母の乳の形をした姥ヶ餅を食べながら、しばし一服していたのでしょう。
ここは、東海道と矢橋街道の重要な分岐点になっていました。江戸時代、「 勢多へ回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ 」と、歌われました。東海道を草津から大津まで行くと瀬田の唐橋を通って約12km。草津から矢橋まで約4kmを歩き、あとは大津まで船旅で行くと楽をすることができたところから、たいへんな賑わいだったようです。ところが、比叡おろしの突風で進まなくなったり、舟が転覆する危険もあった。 このことを「武士の(もののふの) やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(唐橋)」と詠んだのが急がば廻れの語源といわています。

古くから矢橋港は、東海道と大津とを結ぶところとして栄え、近江八景「矢橋の帰帆」として知られてきました。しかし、港付近は埋め立てられ、波止場の石垣が復元されていました。矢橋の帰帆時代の趨勢には勝てず、明治になり鉄道の開通にともない、矢橋港は次第に見向きもされなくなりました。
1846年に建てられた常夜灯が残るのみです。尚、古木の松は、マツクイムシにやられたのか、無残な姿のまま放置されていました。
港跡の西には、人工島「矢橋帰帆島」が作られ、歌川広重が描いた景色は見る影もなくなっていました。

公園の中に、「 菜の花や みな出はらひし 矢走舟 」という、蕪村が詠んだ句碑がありました。
比叡山を背景にして、乗船の時は騒々しかったが、舟が出てしまうと菜の花だけが風に揺れて、のどかな雰囲気を醸し出している風景を詠ったものです。
栄えた矢橋港も無く、矢橋帰帆島を見て 蕪村はどう詠うのであろう。
「 菜の花や いくてさまたげ 帰帆島 」 とでも言うのかなー。
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