第11回歩いて歩いて琵琶湖一周(飯浦~近江塩津駅)
2016年01月29日

第11回歩いて歩いて琵琶湖一周(飯浦~近江塩津駅)

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nonio

• 野洲市

詳細

日時   :平成27年11月17日(火)

集合場所  :JR木ノ本駅改札出口

湖国バス  :木ノ本駅→飯浦

コース    :飯浦~近江塩津駅

所要時間  :2時間 距離 7km 

 2012年8月琵琶湖一周を開始して、 我々は、4年越しに琵琶湖の最北端に到着した。その間、齢も重ね、誰でも参加できるようにと一回の距離もだんだん短くしてきた。これから完歩するまで、益々時間がかかるようだ。

琵琶湖の最北端塩津港からの眺め

 琵琶湖一周で、最も距離が長く、その上、山越えを強いられるのが、北陸本線木ノ本駅と湖西線永原駅間である。 この琵琶湖の北部は奥琵琶湖と呼ばれ、地形的にもほかの地域と様相が違っている。山地が半島状になって湖中に沈み込み、 入江や湾を形成しているので、回りくねった湖岸線となり、人を近寄りがたくしている。ここを一挙に通り抜けるには、我々の体力で無理と判断、一旦、琵琶湖から離れて近江塩津駅に出てみた。

木ノ本駅のバス停に集合

  飯浦バス停を下車して、新しく出来た藤ヶ崎トンネルを通らず、間近に琵琶湖が眺められる湖岸沿いの道路を選んだ。 塩津浜飯浦線の道路は、国道8号塩津バイパスが完成後、自動車の往来が、一挙に少なくなっていた。流れが変わったのであろうか、分岐点の繁盛していたドライブインがいつの間にか廃墟化していた。出足から、何か寂しさを感じながら出発していった。

 遠くにぽつんと見えるのが、竹生島。 琵琶湖につきだしているが、葛籠尾崎(つづらおざき)である。写真では、この岬と竹生島と繋がっているかのようだが、この間、2km。その昔では、陸続きであったが、途中の岬が水没して島だけが残ったのだ。

 その先には、今津から安曇川、比良山系などの遠景が微かに見え隠れしていた。

 湖北の清らかで美しい景観もさることながら、湖面は青く澄み渡り、目にする水は透き通り湖底の小石まで確認できた。琵琶湖大橋を境にして、水質が良くなってきたことを実感してきたが、この辺りが、琵琶湖で最も透明度が優れているのであろうか・・・。

 芝木好子長編小説の「群青の湖」の一説を思い出した。 「奥琵琶湖の秘した湖は、紺青というには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」。

群青色の奥琵琶湖菅浦

竹生島と葛籠尾崎

 日常の繰り返しの日々では、新たな人との出会いが稀だが、ウォーキングでは、思わぬ出会いが待ち受けている。

 大津港から時計回りにやってきた10人強のグループ。信州から2~3日泊りがけで、琵琶湖一周を行っていた。 これから再会することもないが、お互い琵琶湖一周をしていると言う共通点から、旧知の間柄のようにワイワイ。

 今日は高月まで行くと言ったので、滋賀の住人でもある私から、

「湖北にはそれぞれでの集落で観音様が祀られています。その中でも代表的な観音様は渡岸寺の十一面観音像」と、湖北の観音の里を説明。

「渡岸寺の十一面観音像は気品があるのだが、その胸や腹がふくよかで左に微妙にひねった姿が妖艶と言われています。是非見てほしいのが裏側にある「暴悪大笑面」という顔があります。 この不気味にも見える複雑な顔を見ていっては、・・・」と案内した。

 更に、「

奈良には、3人の心の恋人

がいるのだが、この観音さんが滋賀の恋人なのだ」と紹介した。

「ここには、中々訪れることが出来ないので、是非寄ってみたい」と言っていた。

 お互い、これからの琵琶湖一周の健闘を称えて左右に別れた。

信州から泊りがけで琵琶湖一周しているグループ

 浅井町塩津浜辺りまでやってきた 

 塩津浜近くまで歩を進めていくと、地表から4メートルほどの深さに矢板を打ち込んだ穴に出くわした。道路の基礎工事と思っていた。

 その後、京都新聞で、「長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡から、国内最古級の大型の「構造船」の部材だったとみられる板材が見つかった」との記事を知った。 実は、この地が気になり、再訪していたのだが、その時、地元の古老が、「塩津港遺跡の丸子船のことがニュースになった」と自慢げに教えてくれた。日ごろ、ゆっくりと流れる時間で暮らしている人々にとっては、この話でもちきりだったようだ。

 平安時代後期から敦賀に集積された物資が琵琶湖北端の塩津港を経由して、京都へ運搬されていた。最盛期には丸子船が大小およそ1,400隻も湖上を行き交っていたという。それも、昭和30年頃まで活躍していた。

 かつて塩津港は琵琶湖湖上交通の要衝だった。が、いまではその役目を終え、歴史のうねりから消えようとしていることに、無常観と言うのか哀愁すら感じるところであった。

国内最古級の構造船丸子舟の塩津港遺跡

 国道8号線を敦賀へと北進。 この日は火曜日で、奥びわ湖水の駅が定休日であったので、辺りをうろうろしていると、たまたま、国道脇に「常夜灯」を見つけた。天保5年(1834)造立、台座に「海道繁栄」・「五穀成就」、裏面に「馬持中」と刻まれていた。そばの道標には読みにくいが、「 左 いせ たにぐミ きのもと  すぐ竹生島 大津 諸浦出航 」 建立 天保12年(1841)

 ここが、畿内と敦賀や北国とを最短距離で結ぶ塩津海道の起点だったことが分かった。そして街道常夜灯に「海道繁栄」と言う刻まれた文字からして、 かなり賑わっていたことが伺えた。

「海道繁栄」などと彫られた常夜灯

 国道8号線の舗装道路は足が疲れるので、山並みのすそ野に流れる大坪川沿いの野道を歩くことにした。人もあまり近づかないところなので、カイツブリが住み着いていた。突然の訪問者に何組ものつがいや親子が驚いたようだ。われ先に羽をバタつかせ、水面を蹴り込みながら不器用に飛び立たせてしまい、我々もその羽音に、一層驚いてしまった。ここには、自然が残されたままの長閑な世界であった。

山並みのすそ野に流れる大坪川沿いの野道

  この辺りの集落は過疎化が始まっているのであろう。ひっそりとしていた。鈴なりの柿の木がある家の前で、杖代わりに手押し車を押している老婆にであった。

「一つもらえませんか」とねだると、高いところの枝切り器を持ち出してきた。

「幾らでも、とってください」一日じゅう誰ともしゃべらなかったのであろう、親しく話しかけてきた。

2~3ケもぎ取ってから、枝切り器を返そうとしたところ、沢山の柿を入れたビニール袋を手渡された・・・・・。

柿をもらった老婆

 交通量の多い8号線を北上して、最終目的地に向かった。田園地帯に似つかない高架が迫ってきた。鋭い角度でカーブした湖西線が、北陸本線と合わさっているところが滋賀県最北端のJR塩津駅である。 異様に高い擁壁を左に見ながら、きつい坂道を登って行くと、ハイカラな駅舎にたどり着いた。近江塩津駅の名前は知られている割に、駅前は余にも寂しい町であった。

カーブした湖西線

今回辿った飯浦~近江塩津駅地図


湖北に訪れた証として、木之本地蔵院・塩津神社を追記した。

 宿場町として賑わった木之本の町並みは、とても穏やかでのんびりしたところである。駅前の坂道を登って行くと、突き当りとなり、そこに木之本地蔵院。境内を一通り見て回ると、戒壇巡りの入口を発見し、本堂の地下にある回廊を通ることにした。同様に京都の清水寺 随求堂の「胎内めぐり」に一度体験したことがあり、二度目である。

 冥加金300円を支払い、一方通行の通路を進み、一隅を曲がると暗黒の世界になった。目を凝らし、右左、前後を見ても、何も見えない。目を開いても閉じても暗黒以外何もなかった。漆黒の闇の空間とはこのようなことかと悟った。

 暗黒に中では、慣れない闇に戸惑とか、恐怖もなかった。 前に進むだけであった。壁に手をつきながら、手の感触だけがたよりだ。御宝印の錠前に触れると、ご利益を授かると言われていたが、ついに分からずじまい。何回かの角を曲がり、暗闇の中で仄かな一筋の光を発見したとき、新しく生まれ変わったように覚えた。これがご利益であったのかもしれない。 

戒壇巡りは56.7メートルの長さがあるらしいのだが、やたらと時間がかかり、長く感じた。一度試してみては

木之本地蔵院

  国道8号線沿いに立派な鳥居が見えたので、塩津神社に寄ってみた。一歩踏み入れてみると、しっとりとした落ち着いた空気が私を包み込み、物音ひとつしない清潔感あふれた境内であった。境内の奥に社殿があった。なぜか、寂寥感が漂う神社であった。

境内の左側に上へ延びる急勾配の階段があった。なにか霊験あらたかなところに思えたので、登ってみると、祠が一つ。さらに上に延びる階段があり、登ってみると、もう一つの祠があった。

塩津神社

       一つ目の祠                        二つ目の祠

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