三条大橋広重2枚の浮世絵木版画
鴨川に掛かっている京都市内にある三条通の橋にやってきた。三条大橋の橋げたを見るためだ。
2~3人の友人と京都三条から四条について話をしている内に、三条大橋について話が盛り上がった。
「三条大橋は、豊臣秀吉の命により石柱の橋が建てられた」と京都に詳しいA友人が話しかけた。
そんな古い時代に石柱の橋と思っていたところ、「広重の三条大橋は石の橋桁であるにも拘らず、木の橋として描かれている」と面白い話をしだした。
「いや、石柱で描かれた広重の三条大橋をみたことがある」とB友人が言い出した。さらに、『明治時代の「三条大橋の横浜写真」、手彩色の古写真でも石柱だった』と喋りながら誰かが相槌を打った。
話に決着がつかないので、兎に角、中山道を共に歩いている友人と、京都市にある三条通の橋に行ってみることにした。折角行くのであれば、山科から京都駅まで歩き途中で三条大橋を観て行く事になった。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製であった。

この三条大橋の周辺をウロウロ観て回った。

まず、目にしたのは、橋の西詰め南にある「弥次さん、喜多さん」の道中姿の銅像であった。ここでは、三条大橋とやじさん、きたさんを一緒に撮影しようとする旅行者がたむろしていた。写メールを撮るため順番待ちであった。ここは人気があった。
三条大橋のたもとにあるこの像は、十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」でおなじみの神田八丁堀に住む弥次郎兵衛と喜多八をモデルにしている。二人が伊勢詣を思い立ち、数々の失敗と滑稽を繰り返しながら東海道を江戸から京、大阪に旅する物語である。
四条通で冷やかしの声をかけて、梯子を買わされるはめになった。「是もまた咄しのたねよはるばると京へのぼりし梯子一脚」


大橋西詰に申し訳なさそうに石柱が建てられていた。ここは、やじさん、きたさんの銅像と違って誰も見向きもしないで素通りだ。したがって、ゆっくりと観られた。
彫られている文字は風雪に曝されたのか判読できない。が、横に「三条小橋商店街振興組合」による標識には「天正十七年 津国御影」と彫られていると解説してあった。天正十七年とは1590年、津国御影とは神戸市東灘区でここから切り出されたか御影石、つまり花崗岩である。
なお、現在、この大橋の下流側には当時の石柱が使われていると記されてあった。
欄干の柱に飾りの擬宝珠(ぎぼし)には、豊臣秀吉の命により増田(ました)長盛が奉行となって天正18年正月に日本で初めての石柱橋として架けられたと書かれていると解説。
この擬宝珠には色々な事が刻銘されていた。欄干の擬宝珠(ぎぼし)は14個あるらしいが、「石柱橋として初めて架橋。水害による破損に架け替え。朝鮮使節が来日した時に修造」など書かれているようだ。一度、漢文の強い友人と訪れてみたいと思っている。
三条大橋にやってきて分かったことは、豊臣秀吉の命により石柱の橋が建てられた事であった。更に、友達が言っていた広重の浮世絵風景画を調べてみた。

まず、浮世絵風景画の巨匠歌川広重が描いた東海道名所図会を観てみよう。この絵は広重が描いた東海道名所図会の三条大橋である。天保4年(1833年)に保永堂から出版された「東海道五十三次」で、日本美術史上に名を残す永遠のベストセラーとなったものである。
三条大橋の橋杭は日本初の石製であるのに対し、絵では木製であった。

もう一枚の浮世絵風景画である。
広重が1855年制作した最後の東海道シリーズの作品中の三条大橋である。確かに、橋脚部分が石柱で描かれている。20年の歳月を架けて間違いを知り、修正したようだ。
この結果、広重が2枚の三条大橋を描いたことになった。
最後に、岡野亮介氏の明治時代の三条大橋の古写真でも石柱だった。クリック←手彩色古写真
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