久多の北山友禅菊
2020年09月09日

久多の北山友禅菊

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nonio

• 野洲市

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 この方、京都の南丹市美山に出かける機会が増した。一旦、鞍馬に出て花脊・別所・大布施を経て、北へと府道38号線を辿っていた。ところが気が変わり、国道367号線を滋賀県朽木方面へ北上し、広河原へと向かうルートをとった。

 梅ノ木から安曇川に架かる橋を渡って行った。支流の針畑川沿いの道路が、よじ登るような急こう配で、その上に狭隘。そればかりかアユが遡上する時期に重なり、不法駐車がずらりと片側の道を塞ぎ、迷惑の極みだった。

 ここを通り抜け、山間集落にさしかかった。川沿いには、ずんぐりした古木も見られた。とりわけ、私の目を引き付けたのは、地際から2m程度の高さの位置に、多数の幹が株わかれした特異な樹形をした樹木だった。北山杉の台杉だと気づき、この辺りは、滋賀県から京都の北山に入ったことが分かった。ここは、京都市の最北端に位置する「久多」。この名は、平安時代からそう呼ばれていた。

 山深い周囲の緑を背景に、清流が流れるのどかな自然の風景が出現した。が、「友禅」の文字が怪訝に思った。

「糊付けて染める友禅染の講習でもやっているのか」と頭をひねった。

「茅葺のとんがり屋根」のある集落をくねくねと進んでいくと、私の間違いをすぐに知ることになった。

 「北山友禅菊」と書かれた表示板が・・・・。

かやぶき屋根越しに紫色の花が、競い合うように咲いていた。古風な茅葺と薄紫色の友禅菊が相まった風景に、そこはかとなく懐かしさを覚えた。 

自動車から降り立ち、一つ一つの花を眺めてみると、目鼻立ちがすっきりした顔立ちをしていた。この古風な「友禅」と誰が名づけたのかスマホで探ってみると、数多くの命名を行った牧野富太郎博士に行き付いた。

 どうして、友禅菊と命名したのか本意はわからないが、色鮮やかな友禅染の特徴は、隣り合う色が混ざらないようにと、糸目糊の技法にある。仕上げの際に糊を落とすと、糊をつけた部分が糸のような線状に残り、模様にくっきりとした輪郭ができ、スカッとした文様になる。

 この菊の端正な顔立ちから「友禅」という言葉を思い浮かべたのであろう。さらに、色合いだが、当時友禅染に青黛などの顔料が多用されていたことから、この菊は「友禅」という文字にすべて凝縮されると。

京都をイメージする「友禅」と京都北部を意味する「北山」を組み合わせて「北山友禅菊」という愛称となったようだ。

  8月15日、初めて訪れた時は、しっかりと咲いていた北山友禅菊が、日に日に衰えていった。19日には、訪れ人も来なく、終わりを告げた。一束の花束200円で売られていたものが、なぜか300円に値上がりしていた。

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