伊香立・融神社の散策
2014年11月23日

伊香立・融神社の散策

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nonio

• 野洲市

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 自動車が激しく往来している堅田の街から、山手に入っていくと、大尾山より琵琶湖に向けて裾をひく丘陵地帯に棚田が広がっていた。かぐわしい香りが匂い立つのであろう、伊香立と呼ばれている。 五ツの北在地、上在地、下在地、向在地、生津の集落が点在していた。この辺りは、荘園が開かれたところで、古来から開かれた地域である。

 この集落のひとつ、生津(なまづ)へ、堅田駅から江若交通のバスが走っている。一日の本数は数えるほどである。終点生津の一つ手前の「岡出 」の停留所で年老いた女性が待っていた。バスがやってくると、お金を握り締めて一番に乗り込んでいった。運転手に何かしゃべって直ぐに下車していった。そば耳を立っててると、今朝、バスを乗って堅田の街へ出かけていたようだ。その時、細かいお金を持ち合わせていなかったので、夕方、この代金を、支払いに来たのだ。
この地で暮らしている人々は、信頼で繋がっていた。人の深い善意を感じて、しみじみ良い気持ちになった。ここでは、昔とかわらないゆっくりとした時が流れていた。

大津仰木の馬蹄形の棚田

 伊香立は真野川上上流の丘陵一帯に広がるところである。生津から仰木に向かう道に真野川の支流融川に朱色の欄干の橋が架かっていた。
この横に、ヒノキ並木の参道が延び、この川の名前「融」をとった融神社があった。平安時代中期、紫式部が執筆した『源氏物語』の光源氏のモデルであると考えられる源融(みなもとのとおる)公を祀る神社である。
 紫式部は、物語の主人公として、血筋の高貴さに加え、読み手が憧れる美男で風流人を設定した。何よりも女心を知っている人物でなければならなかった。この相応しい人物として嵯峨天皇の皇子であった源融を選んだと言われている。

光源氏のモデルであると考えられる源融を祀る融神社の参道



『百人一首』に撰ばれている源融が詠んだ和歌

    陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに
    乱れそめにし われならなくに

             河原左大臣

陸奥(みちのく)の「しのぶもじ摺り」という乱れ染めの布の文様のように、わたしの心も乱れてしまった。だれのせい。わたしは誰にも心を乱されたくはなかったのに。常心でいられないもどかしく思う恋心を詠った和歌である。 河原左大臣は、本名を源融である。

 北在地から生津にかけての高原状の裾野には、そこはかとなく源氏物語の余韻が息づいていた。

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