「急がば廻れ」の語源のルーツを訪ねて
2013年05月11日

「急がば廻れ」の語源のルーツを訪ねて

N

nonio

• 野洲市

詳細

 誰でも知っている「急がば廻れ」。この語源のルーツを求めて、「矢橋道」を歩き、帰帆島から大津港の船旅を楽しんできた。

 瓢箪の商いをしている瓢泉堂の店前に「 右やはせ道 」の道標があった。寸法は、高さ174cmあり、幅・奥行きは30cmと堂々としたものである。

 当初は5尺(151.5cm)のものが建てられたが、旅人には見にくいということで、1798年矢橋の船総代が目立つようにと建て替えたものである。 建てられて既に200年以上経ち、下の字が崩れ始め、判りにくいが、「 是より廿五丁 大津へ舟わたし 」 と刻まれている。矢橋の船乗り場まで2.7kmの距離がある。

 かつては、ここが、老舗の「姥が餅屋」あったところで、京都へ向かうには、 矢橋から琵琶湖に向かって進むか、そのまま、陸路を瀬田の唐橋に向かうか、どちらの道にいくか迷ったところである。

「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅」と俗謡を唄っている。

 当時、どっちに行こうか思案しながら、旅する人達は、茶店の縁台に腰をおろして、一杯の緑茶と乳母の乳の形をした姥ヶ餅を食べながら、迷ったのであろう。また、江戸時代、「 勢多へ回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ 」と、歌われた。 このことを「武士の やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(唐橋)」と詠んだのが急がば廻れの語源といわている。

 陸路を歩いていくより距離で2里も近くなった。が、湖上経路は比叡山から吹きおろす突風で、船が難破する危険があったので、瀬田の唐橋を渡った方が、安全確実だと歌ったものである。つまり、ここが、「急がば廻れ」の語源のルーツであった。

 古くから矢橋港は、東海道と大津とを結ぶところとして栄え、近江八景「矢橋の帰帆」として、琵琶湖の代表的な渡船または渡しの名所であった。今では、港付近は埋め立てられ、波止場の石垣が復元され、1846年建立された常夜灯とともに在りし日の面影を今に伝えている。だが、古木の松は、無残な姿であった。

さびれた矢橋港常夜灯

 港跡の西には、人工島「矢橋帰帆島」が作られ、歌川広重が描いた景色は見る影もなくなっていた。

公園の中に、「 菜の花や みな出はらひし 矢走舟 」という、蕪村が詠んだ句碑があった。

 比叡山を背景にして、乗船の時は騒々しかったが、舟が出てしまうと菜の花だけが風に揺れて、のどかな雰囲気を醸し出している風景を詠ったものである。栄えた矢橋港も無く、矢橋帰帆島を見て 蕪村はどう詠うのであろう。

 「 菜の花や  いくてさまたげ 帰帆島  」 とでも言うのかなー。

港跡の西には、琵琶湖を遮るように下水道浄化センターの人工島「矢橋帰帆島」が建設されていた。

埋め立てられた人工島「矢橋帰帆島」

 歌川広重が描いた光景には、琵琶湖が眼前に広がっていた。矢橋港から向かい側の大津へ帆舟が行き交っており、矢橋の船着場に続々と帰来する帆船が描かれ、彼方に比叡山が麗姿を見せていた。瀬田橋ルートは、かなりの迂回になるので、東海道を行く旅人が、渡し船で近道をしてにぎわったのであう。当時のゆっくりとした時間の流れが感じられる光景である。

歌川広重 近江八景之内(永久堂板) 矢橋帰帆 大津市歴史博物館 蔵

 人工島「矢橋帰帆島」からチャーターした遊覧船に乗り込み、 瀬田の唐橋に寄り道して大津港まで遊覧して、昔日の旅人の気分を味わってみた。

近江大橋

<

瀬田川

瀬田の唐橋

不適切な内容や規約違反を発見した場合はご報告ください

この記事を書いた人

N

nonio

1週間前から参加
野洲市

ユーザー詳細