鈴鹿・銚子ヶ口
普通、山は、何々山とか岳と呼ばれているが、鈴鹿山系に単に「銚子ヶ口」という珍しい名前の山がある。「銚子」とは酒を入れて杯(さかき)に注ぐための器の意味であり、これに因んだ山名なのであろう。古くから地元の人にそう呼ばれていたので、そのまま山名となったのであろう。滋賀県側の鈴鹿山系には面白い名前が付けられた山が多い。
この山は、鈴鹿山脈の主脈から外れ奥まった位置にあるのだが、この日、何組ものパーテーに会った。この中に「三河安城」から来られている人達もおられた。この不思議な山名につられてきたのであろうか・・・・。最近、この山は、ただただ茫漠として広がっている大自然に接することができるので、入山する人が多いようだ。
だが、国土地理院の二万五千分の一の地図では、1076.8mのピークに「銚子ヶ口」の表示もなく、辺りの杠葉尾(ゆずりお)集落・神崎川の地名だけだ。どうも、不親切であるが、このまま放置しておく方が、よいのかも知れない。
2012年10月27日(土)、チャーターしたバスは、野洲駅から八風街道(国道421号線)に入り、永源寺や杠葉尾集落をやり過ごし、神崎川と交差する手前で下車した。

神崎橋から少し戻って登山届けボックスに投函して、銚子ヶ口に導いてくれる最もポピュラーな北尾根ルートをたどった。植林用の作業道である。上りだけでなく、下りも交え、ゆっくりと高度を上げるよう敷かれている。そんなに遠い昔ではないが、この辺りは、山仕事や鉱山で働くひとが入った山域で杣道が張り巡らされていたようだ。この道もその中のひとつである。
しかし、退屈なほど杉が植えつけられた森林帯であった。ここ越えると杉林が終わるのではないかと期待するのだが、同じような風景が次々と現れた。
種田山頭火の有名な俳句をもじって「分け入っても、分け入っても植林帯」ではないかとヘキヘキした。
標高700mを越える尾根筋に出た時、一時、樹間から、展望が開けた。


須谷川の川底さえ見えないほど切れ込んでいた川も、源流に近づいてくると、真横で沢音をする小川になった。ここまで登ってくると、人工林も無くなり自然林の谷になった。陽射しが射し込み林床には下草が繁茂した最後の急登になった。ほぼ3時間人工林帯を歩いたことになった。 「こんな高所まで植林をしたものだ」と感心しながら鞍部に登り切った。
更に、ひと上りして東峰にいった。
三角点のある東峰は潅木の中で視界は悪かった。ここで何組ものパーテーにであった。
12時に頂上に達した我々に対して、5人組の中高年パーテーによると、「大峠から水舟の池を一周してきた」と話してきた。
「どのルートをたどったの」と問いかけると
「風越谷林道の奥まで車でいき、トロッコレールを敷いた尾根道を辿ると、1時間少しで、ここまでこられる」と得意げに話していた。
「これから水舟の池に行くには、行き戻りで2時間以上かかる。更に下山するころには、この時期、真っ暗になる」と話しながら別れた。が、内心、奥まった山中にある雨乞いの信仰にされていたと思われる水舟の池には、どうしても行くことを心で誓い、来た道を下山していった。
鈴鹿山系の峰々は、青々していたが、頂上付近だけは、すっかり紅葉が始まっていた。

『日本百名山』は、深田久弥の最も著名な山岳随筆である。文筆家で登山家でもあった本人が、実際に登頂した日本の各地の山から自身が定めた基準で、100座を選び出した随筆集である。
残念ながら、この中に鈴鹿山系の山は、藤原岳は標高が低い、御在所岳は山頂が遊園地化し世俗化していたため除外された。彼の基準には、山の品格・山の歴史・個性のある山があるようだ。なお、この基準に加えて、観光的に開発されつくして「山霊のすみかがなくなっている」このような山は選ぶわけにはいかないと述べている。
滋賀県と三重県にまたがって、南北60kmにわたり広がっている鈴鹿山脈のふところに抱かれると、彼はどう感ずるだろうか。ここはどこから見ても山々。山霊がすんでいるところであるのに。(クリックすると写真拡大)
GPSの軌跡

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