「旅館かめや」角の北国街道の道標
「旅館かめや」の角にある道標に出会ったのは、奇遇だった。
中山道沿いの番場公民館にて、江竜喜之氏の講義を受けるため、早朝、JR米原駅から宿場町の面影を色濃く残している北国街道を北上していた。
かなり急ぎ足だったが、何気無しに左をむくと、私を呼び込むように彫の深い書体の整った道標が立っていた。何処かで出会っていたような気がした・・・・・。
道標には「左北陸道 右中山道」と刻まれていた。中山道の鳥居本宿から北国街道がはじまり長浜、木之本を経て、越前に至る方向と400年前、米原湊が開かれた時に開通した中山道の番場、醒井へ向かう間道との分岐点であった。
(民俗文化研究会とは連絡取れず、写真を無断で使用)
東面「弘化三丙午再建之」(1846年、ひのえ・うま)
南面「右 中山道 はんバ さめかゐ」(番場、醒井)
西面「左 北陸道 ながは満 きのもと」(長浜、木之本)
その時、分からなかったのだが、『近江の道標(歴史街道の証人)』木村至宏著には、『近江の道標』(民俗文化研究会、1971年)の前著がある。滋賀県全域にわたる450本余りを収録された道標の中で、表紙見開きに載せられたものであった。
眼にした光景は、書籍から私の記憶に刷り込まれていたのだ。
凍てついた雪解け道の三叉路に、この道標があり、後ろには鄙びた「商人宿」の看板を掲げた2階建ての家を、通り過ぎていく数人の学生が写されていた。これから本格的に始まろうとしている北国街道は、寒くて厳しいだろうとモノクロの写真が訴えていた。
道標の傾き加減からして、長年、旅人を案内してきたようだ。道標には、次の行き場所、道の方向など簡潔な情報だけが刻まれているだけだ。だからこそ、旅人達は文字を丹念に追ったことだろう。 歩く以外に手段がない時代には、道標が頼り。私は山野に行くので、標示板の恩恵をわかっているつもりだ。
かつての道標は、無用の長物となって、移動させたり、衝突により破損している。そんな中、 この道標は建立されたその場所で、道標の傾きも直され、更に太いパイプでガードされていた。この道標は、今や地域の歴史を知るうえで貴重な文化財である。
2017年1月16日積雪時

人生にも岐路が多々ある。分かれ道でどちらに行けばよいのか迷い、背中を押してくれるものが無ければ、なおさら迷う。
ところで、私は、それが重要な分岐点であったことを、後で気づき、反省すること頻りだ。
いずれにしても、”分岐点のみちしるべ”は、ロマンを感じさせる。
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