豊郷ウォーキング
距離 9.5km 歩数 12,000歩
コースタイム 近江鉄道豊郷駅 9:10 天稚彦神社 10:40 千樹寺11:00 愛知神社 11:30
中村本家12:00 白山神社・赤田城址 13:30 豊郷小学校 14:00
中山道一里塚 14:35 近江鉄道豊郷駅 15:00
豊郷のコースガイド
豊郷町は「江州音頭」の発祥地として知られるより、8年ほど前、豊郷小学校の解体に着手
しはじめたTV映像が、連日連夜流されたことにより、世間に知られるようになりました。
その後、豊郷町がどのように変貌したのか、自分の目で確かめておきたかったし、豊郷小学校
の建設に私財を投じた大手商社「伊藤忠」の伊藤忠兵衛(1842~1903年)の生家にも興味が
あったので友達2人で出向いてみました。
豊郷町に行くには、JR近江八幡駅から近江鉄道に乗り換える必要があります。
近江鉄道は、近江盆地の穀倉地帯を縦断する鉄道ですが、なにぶん、乗客が少なく運賃が高い
ことが有名です。
だが、ウォーキング・ハイキングをする人にとっては、平日であっても格安の運賃で、1日遊べる
方法があります。ウォーキング・ハイキング申込用紙に必要な事項を記入すると、近江鉄道全線
乗り放題のキップが手に入れることができます。
近江八幡駅から豊郷駅間の往復550円で済みました。
おうみはちまん①始発駅の表示盤は、しゃれています。左の駅は、”むさ”、です。
右は、写真を拡大してください。
コミュニティハウスを併設した真新しい3代目の豊郷駅②に降り立つと、人もまばらで、駅前正面の
道路には、瀟洒な店が1軒だけの想像以上に静かな町でした。
豊郷町は、「中山道」を中心にして、東西に街並みが広がっています。
近江鉄道と並行している旧中仙道沿いに、伊藤忠兵衛家屋敷跡③があり、続いて近江商人を
代表する伊藤忠兵衛④(1842~1903年)の板張りの黒い塀がめぐらされた
記念館がありました。
大手商社伊藤忠・丸紅の創始者の伊藤忠兵衛が住んでいた生家です。
内部は、忠兵衛が生活していた頃をそのままの形で残されていました。
貿易をなりわいとしていたので、当時の英国の最先端の備品を持ち込んできたのでしょう。
明治40年代につくられた西洋風バスルーム・レコード蓄音機には驚きました。
”ハイカラさん”だったのでしょう。
たまたま、”「伊藤家に西洋音楽が入ってきた」とSPレコードを蓄音機で聞く”イベントを開催すため
数人の人が朝から集まって、蓄音機のハンドルを回すなど色々準備をされていました。
人の出入りも多かったので、庭を一周して早々に出ました。
おうみはちまん駅① 3代目の豊郷駅②
伊藤忠兵衛家屋敷跡③ 伊藤忠兵衛記念館④
旧中仙道を西方向に進み、天稚彦神社で少し一服して、千樹寺⑤⑥に向かいました。
この場所は、「江州音頭」の発祥の場所として有名です。
「江州音頭」の出来上がった言われは、つぎのように石碑に刻まれていました。
「千樹寺の住職が、余興として、経文の二、三句を繰返し歌いながら、手振り足振り揃え、
集めた村人と共に踊った。これを見た群集もあまりの楽しさに我も我もと円陣に加わり、
ついには夜がふけるのも忘れて、皆で踊りあかした」という言い伝えがあるようです。
「え~皆様の」ではじまる江州音頭は、誰もが踊り出してしまう独特のイントネーションを
持った唄です。この地の人々は、基本的に明るく、陽気な性格の持ち主なのでしょう。
、
江州音頭の発祥地⑤ 千樹寺(通称「観音堂」)⑥
豊郷駅を大きく一周するようにして散策していきました。千樹寺から少し戻って近江鉄道・東海道
新幹線を越えて、宇曽川沿いの中村本家⑦に立ち寄り、白山神社⑧で昼食をとりました。
ウォーキングマップに書かれている岡村本家・吉田城址を探していたところ、
たまたま、岡本家の親父さんに出合、酒造造りの 「麹つくり」「仕込み」「搾り」の設備の
説明を聞くことになりました。
「岡村本家」さんは、創業安政元年(1854年)、彦根井伊藩から酒造りを命じられたのが、
始まりだそうです。「金亀」という銘柄でお酒を造られていますが、「金亀」とは、彦根藩主井伊
大老の居城、金亀城(こんきじょう)から由来しているそうです。
話が長かったが、酒造りで最も大切な水は、鈴鹿山脈から流れる伏流水を使用し、ゆっくりじっく
りと酒を搾っておられるとの話でした。
酒も美味しそうですが、搾りかすの”もろみ”がもっとおいしそう。
岡村本家・吉田城址⑦ 白山神社⑧
昼食後、田園風景を眺めながら、再び、近江鉄道・東海道新幹線を越えて、「先人を偲ぶ館」・
「阿自岐神社」を通過して、豊郷小学校にやって来ました。
豊郷小学校は、伊藤忠兵衛の前身にあたる商店専務の古川鉄次郎が、アメリカ人建築家
ウィリアム・メレル・ヴォーリズに設計を依頼し、校舎と講堂⑨を建設し寄贈したものです。
鉄筋コンクリート構造は、当時、「東洋一の小学校」といわれ、今日に至るまで豊郷小学校
のシンボルとなっていました。
コンクリートの外壁は、年月も経っているので薄汚れていましたが、建物は、
威風堂々としていました。
ただ、鉄製の柵で閉められており、なぜ立ち入り禁止になっているのでしょう、人気は全くありません。
いきさつは、1999年まで遡らなければなりません。
町長大野和三郎は、豊郷小学校は
1937年に建設されたもので、
老朽化が進み、
耐震性にも
問題があるとして、校舎と講堂を解体し、新校舎の建設を目指す方針を打ち出した。
・2001年地元町民からは、取り壊すことに反対する意見が殺到し、
「豊郷町の歴史と未来を考える会」が設立された。
・考える会は、由緒ある講堂の解体工事の停止を大津地方裁判所に求め、
これが認められた。
・町は、高等裁判所に上告したが、講堂を保存し、校舎に関しては解体の方針を
変更しなかった。
・2002年再び、考える会は、大津地方裁判所に校舎解体差し止めを求め、承認された。
大野町長は地裁の判断や町民の意向を無視して強行的に解体工事を開始した。
・その結果、2003年3月に大野町長は、リコールされた。
・2003年4月選挙の結果、住民が選んだのは、大野町長であった。
・
再選後の町長は、校舎を保存するとともに新校舎を建設する方針に方向転換。
6月に着工した新校舎⑩は翌2004年3月に完成した。
解体反対派候補の分裂などの要因があるにせよ、町長が再選された。と言う事は、「民意は、校舎と講堂を解体すべきとの」結論である。TVなどの報道、裁判所の結果は、何だったのか考えさせられる。
だが、再選後の町長は、校舎を保存するとともに新校舎を建設する方針を採った。日本的と言うか、近江流の「三方よし」の世間よしを採ったのかも知れない。ほぼ4年間、紆余曲折したことが民主主義と言うものかもしれません。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の豊郷小学校⑨

豊郷小学校の新校舎⑩
ヴォーリズ設計の講堂・校舎を左に見ながら、中山道一里塚⑪を通って近江鉄道豊郷駅に戻って
きました。
中仙道の案内の石碑⑫には、次のようなことが書かれていました。
「江戸時代には、高宮と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展してきた。
立場茶屋が設けられ旅人や馬の憩い場となっていた。更に、一里塚が設けられ、
『松の木が植えてあって、塚の上から湖水がみえた』と豊郷村史に記されている」
中山道一里塚⑪ 中仙道の案内の石碑⑫
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