冬季の天狗堂/君ヶ畑
あと数日で2015年になろうとしていた、何かと慌ただしいこの時期、鈴鹿山系の天狗堂に出掛けた。何々堂とは神仏をまつる建物を想像させられるが、れっきとした山名である。
「鈴鹿の山と谷」の著者西尾寿一氏は「この山をなぜ天狗堂と言うのかは確たる証明はできないが、天狗のすみかにふさわしい鋭峰であったのだろう。……行者(修験道か)の堂があったのか、信仰としての天狗講があったものか、今となっては不明である」と記している。いずれにしても、大層変わった山名が付けられたものだ。
この山の頂上にある天狗のすみかにふさわしい大岩は、すっかり雪に覆われていた。尖峰は天空に突き出し、その彼方に長々とした山並みが横たわっていた。 眼前の山脈は、南北60kmにわたる鈴鹿山系の最も奥まったところである。
鈍色(にびいろ)をした山並みの最高高峰が御池岳である。ボタンプチの絶壁の辺りが、既に根雪になっているのであろう真っ白になっていた。平らな奥ノ平も手に取るように見えた。手前のT字型をした尾根、そして土倉岳には、いずれ行きたいと思いつつ、踏み込んでいないところだ。この黒々したところは、染み入るような静けさが漂っているようで、人を寄せ付けないように思えた。
突き出た岩が天を指す天狗堂から長大な鈴鹿山系を望む

右側へとみまわすと、藤原岳、更に、銚子岳・静ケ岳と主脈が連々と続き、遥かかなたに雨乞岳も確認でき、鈴鹿山系の奥深さを感じた。 最近では、簡単に登れる天狗堂の大岩から、鈴鹿の主稜の壮大な景観を望むことができるので、この山に訪れる人も多くなったと、言われている。

天狗堂の登山口である君ヶ畑の集落に行くには、愛知川の支流御池川を遡ったところまで分け入らなくてはならない。鈴鹿山系は、人と共存してきた山岳である。人々が暮らしのため、奥まで分け入り、山村を開き人々との深いかかわりを持ってきた処である。
永源寺ダム湖畔を走っている国道421号線の道路を辿り、中畑を左折して御池川沿いの政所の集落を通過していった。これ以上行けないかと思うほど狭い道を通り抜けると、益々道路が整備され良くなっていった。「ろくろ木地発祥の地」という標識が立っている10軒弱の蛭谷の集落があった。 そこから更に曲がりくねる道を通過していくと、開けた場所に山里集落があった。君ヶ畑である。かつてはこの御池川を遡り、ノタノ坂を越えた茨川が最も深いところにある集落であったが、今では君ヶ畑が最も深いところの集落となった。早春の福寿草を求めて藤原岳(西尾根)
かやぶき屋根にトタンで覆われた家屋が所狭しと50戸ばかり、建ち並んでいた。でも、誰とも出会うことがなく、静まり返っていた。人と出会わないのは雪のせいと思われるのだが、真夏に訪れた時も同じであった。人が住んでいる気配を感じるのだが、犬の声さえ聞えなかった。


集落から登山口のある大皇器地祖神社へ向かった。コンクリートの舗装された緩やかな勾配の参道を上がると、鳥居があった。由緒ありそうな神社をみやりながら、山道に入って行った。 すぐさま歩きにくい雪に見舞われた。御池岳から眺めた天狗堂の急峻な姿からして覚悟をしていたが、いきなり雪の急登には閉口した。しばらく登ったところで、トップはワカンの着用を強いられた。一気に登り詰めて、稜線に出て一息ついた。稜線歩きをひとしきり楽しんだ後、岩が点在するようになり、再び急登となった。頂上にある大岩は、雪に埋まっていた。これ以上進むには積雪量が多く、引き返した。
今回の山行では、天狗堂の全貌の姿を見ることが出来ないので、天狗堂と谷を挟んで向かいあっている御池岳から眺めた写真を載せた。一際きわだっている山が天狗堂である。あと12mで千メートルに達する秀峰である。
君ヶ畑は、天狗堂・サンヤリ、鈴鹿の御池岳、藤原岳などへの登山口であると共に、木地師の故郷である。コケシ人形が作られている東北地方であり、九州に散らばって行った戸主だけで一万人とも言われている。
私は、蛭谷に行ったことがあったので、君ヶ畑へレイカディア大学の仲間を案内したことがあった。駒が岳(高島)の蔓が巻きついたミズナラの樹

大皇器地祖神社に訪れ時、仲間の一人が、「本殿には、すだれが上から下までかかっている」とつぶやいた。
情況が呑み込めない私が聞き直すと「簾は神社や仏閣などの高貴な場所に掛けられます。神聖なところと俗界とを仕切るのです。でも、普通の神社では、途中で丸められていますが、ここでは、簾ですっかり覆い隠されていることは、かなりの高貴な方が祀られています」と説明してくれた。また、墓所の石の戸には菊の御紋が刻んであった。
なぜ、単なる集落に対して、これほど立派な神社が建立され、多くの史跡もあるのかを調べてみた。
鈴鹿山地の愛知川の奥地には、古来より小椋谷と称した杣人が蛭谷、君ヶ畑に住み着いていた。この地には、杉・ヒノキの良材があったが、山年貢として多量の木材が伐採されて、鎌倉時代の末期には、枯渇してきた。この時に、残るトチ・ブナなど轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の加工する木地師が登場したようだ。だが、これらの樹も取り尽くしてしまい、木地師は全国各地に散っていったと言うのである。
これでだけで、話が終わらないのである。考え出されたのが、「氏子狩」と言う制度である。知恵者は手の込んだ方法を編み出すものである。
村の衰退を食い止めるため、全国に散らばって行った木地師に、全国の山々を自由に伐れるという特権を認める綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え、この文書を携えて全国を巡回する制度を作り出した。
各地に散った木地師達を探し出し、氏子に強制的に登録し、木地師影響下に置くことができれば、大きな収入を得ることに繋がると考えたのである。 さて、この権威づけとして、惟喬親王(これたかしんの)を利用したのである。
平安時代に皇位争いに破れた文徳天皇の第一皇子、惟喬親王が、わずかの家臣をつれ、君ヶ畑(小松畑と呼ばれていた)に落ちのび、この山中に幽棲したといわれている。惟喬親王が法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て、轆轤を考案したと言いふらした。こうして木地師は、惟喬親王を轤轤の神様と仰ぐようになった。
だから、こんな山深い処であるが、「惟喬親王」を祀る祖大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)の社殿であり、惟喬親王の住まいとされた金龍寺の社が建て、御所には「日本国中木地屋氏神惟喬親王御廟所」という石碑などを恭しく構える必要があった。
鈴鹿山系には色んな歴史があり、いつ行っても飽きないところである。今も昔も変わらない人の営みの秘話が横たわっていた。
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