摺針峠
2015年02月17日

摺針峠

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中山道、滋賀県米原市番場と彦根市鳥居本の間にある峠です。
番場は「瞼の母」でおなじみ番場の忠太郎のふるさとで、明治天皇行幸記念碑などが立っています。

昔、峠には「望湖堂」という茶屋があって、中山道を行き交う旅人が琵琶湖を眺め「するはり餅」を食べながらこの茶屋で一休みしたのでしょう。

建物は茶屋ではあるが本陣構えで参勤交代の殿様や朝鮮通信使の使節団も立ち寄ったのでしょうが、平成3年の火災でほとんどの資料が消失してしまった。

摺針峠の名の由来は、その昔、諸国を修行して歩いていた青年僧がこの峠を
通りかかった時、斧で石を摺っている老婆に出会います。
僧が聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて
針にするといいます。僧侶自身挫折しそうになっていたのですが、「この老婆の苦労に比べたら自分の修行はまだまだ甘かった」と、自分の未熟を恥じ、心を入れ替えて修行したのちに弘法大師になった、
という伝説から「磨針峠」の名はきています。
その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え杉の若木を植えて、
 「道はなほ学ぶることの
     難からむ
   斧を針とせし人もこそあれ」
 という一首を詠んだと伝えられています。
今も峠の上には磨針明神社があり、境内には周囲が8mにも及ぶ、弘法大師のお手植えという杉の木があります。

写真は滋賀県立近代美術館所蔵のものです。

小倉遊亀画伯の「摺針峠」が有名ですね。
1895年3月1日大津市丸屋町に生まれる。
1913年滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)に入学。
1980年上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章。

摺針峠を下りてくると鳥居本宿に入ります。
北入口には松並木があり、昔の商人の石像が出迎えてくれます。江戸時代からある「赤玉新教丸」を製造している有川家があり、本陣、脇本陣、旅籠があったその当時の雰囲気を今に伝えています。
鳥居本宿は、多賀大社の鳥居がここにあったことからその名が付いたと伝えられています。

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