野洲の道標・錦織寺
私は、滋賀県のJR各駅に備えられている「滋賀を歩こう」の地図を頼りに、ウォーキングを楽しんでいます。それも気がよく合う男二人だ。相手方は必ず、正確にウォーキングマップに描かれた道順を辿って先導くれるので、私はついていくだけです。予定コースを完歩すると、至福の時間を得るため決まって酒屋を探すことになります。ただし、田舎に行くと店屋が見つからないで苦労するのです。
ところで、最近、長浜城歴史博物館 江竜喜之館長の「近江の歴史と名所図会」の講義を8回X2時間受け、道標に興味をもってしまったようだ。最近のウォーキングでは、古い石碑があると、必ず目で追ってしまう自分に気がつきます。
近江の最も古いものは1680年に建立されたと言われ、特に江戸時代中期から後期が多いようです。およそこの300年の間に、街道沿いに立てられた道標には、主に「行き先」「方向」「距離」「その他」が刻み込まれているシンプルなものです。
たったこれだけの情報だけですが、同じ行き先の道標が数多くあると何らかの意味が持ってきます。
守山宿を訪れたとき、中山道守山宿の高札場の一角の目抜き通りに、立派な道標があった。「右 中山道 并 美濃路」、「左 錦織寺 四十五丁 こ乃者満ミち」①と刻まれていた。
ここは、中山道・美濃路と錦織寺の分岐点で、右に曲がると守山宿の中心街を通り武佐・愛知川と進み、美濃へと続いていること示されています。左手に進めば、ここから錦織寺まで約5km、また、「このはまミち」は、琵琶湖の舟着き場として栄えた木浜港に通じることも示されています。この道標は1744年に作られた古いもので 昭和52年守山市の文化財に指定されています。
当時の旅人が1日に歩く距離は8里(約32キロ)とされ、守山宿が京都から丁度8里の場所にあることから「京立ち守山泊まり」と言われ繁栄した宿場町として賑わっていました。特に、この道標の近くには高札場があった。多くの旅人が、宿駅で人馬を替えての継ぎ立て、賃銭をはじめ法度(はっと)や掟書(おきてがき)などの触れ書を見るため立ち寄るところです。
ところで、私だけかも知りませんが、錦織寺の存在すら知らなかった。このような往来の激しいところに「錦織寺」の道標がなぜあるのか不思議に思えた。


さらに、守山宿から中山道を東下りしていくと、野洲行畑において、中山道と朝鮮人街道の分岐点に至ります。現在、ここには道標はありませんが、少し離れた蓮照寺に保管されていた。「左中山道(北国みち) 右八まんみ(ち)」の道標と並んで、「自是錦織寺迄四十口」②の道標がありました。当時の野洲郡のヒトの流れの中心は、中山道、朝鮮人街道であったと思われますが、「錦織寺」道案内がされており、丁寧に距離まで表示されていたのです。それだけ、ここへ訪れる旅人が多かったのでしょう。
まず、この寺の様子を観るために野洲市木部(きべ)にある錦織寺に赴いた。

この寺は野洲川と日野川間の広大な沖積流域に広がる平野部の真ん中にあった。湖東平野部を見守るように三上山が見えた。この山を後景に威風堂々とした錦織寺があった。当時の旅人にとっても、この寺は、大きいので遠くからの目印となったと思われた。
広い寺域には、左右に立派な築地塀(ついぢべい)が延び、境内には阿弥陀堂・御影堂・宝蔵(ほうぞう)・書院・講堂・鐘楼といった大きな建物が立ち並び、威厳と格式を感じた。そして、親鸞聖人が阿弥陀像を安置して再興した時、天女が下り、蓮の糸で綿を織って献じたことから寺号がついたと言われています。
この寺は親鸞聖人を祖とする浄土真宗十派の一の真宗木辺派の総本山です。木辺の里から発祥しているので木辺派と呼ばれ、全国に220の末寺を傘下に持っているようです。九州など他県には大勢の門徒がおられるようですが、野洲と近江八幡あたりに50か寺ほどで、県内では余り知られていないのです。
滋賀県は浄土真宗に対する信仰が厚く、「火事になったらまず仏壇から持ち出す」という土地柄であると言われています。 そして、この寺密度が日本で一番高い県は、近江なんです。ここには、1600の真宗のお寺がありますが、そのほとんどが東西両本願寺を本山とする大谷派と本願寺に属しています。 その中の一派の真宗木辺派の本山であったが、あまりにも巨大な教団に圧倒され気づかなかったようです。
そこで、野洲周辺にどれだけ「錦織寺」の道標があるのか調べることにした。これらを一覧表にして、場所も印した。
タイトル
錦織寺道標①
錦織寺道標②
錦織寺道標③
錦織寺道標④
錦織寺道標⑤
銘文
右 中山道 并美濃路左 錦織寺 四十五町 こ乃は満みち
自是錦織寺迄四十口
真宗木邊派 本山錦織寺 1り
錦織寺江三十
兵主大社従是錦織寺 三十八丁
大きさ
高さ155cmX幅30cmX奥行30cm
高さ87cmX幅25cmX奥行24cm
高さ220cmX幅45cmX奥行44cm
高さ88cmX幅23cmX奥行20cm
高さ114cmX幅23cmX奥行23cm
かたち
方柱型
左同じ
左同じ
左同じ
左同じ
行き先と距離
錦織寺
左同じ
左同じ
左同じ
左同じ
四十五町
四十口(町か)
1里
三十町
三十八町
建立年
1744年
江戸時代
不明(明治~大正)
1806年
不明
建立者・寄進者
大津西念寺講中
不明
不明
不明
比江村役人
所在地
守山市本町
野洲市行畑
野洲市小篠原
野洲市大篠原
野洲市比江
建立箇所
中山道守山宿の高札場の一角
中山道と朝鮮人街道の分岐点
野洲駅前の朝鮮人街道交差点
中山道沿い西池付近
長澤神社の野洲川沿い土手
現設置場所
上記同じ
戦後、蓮照寺境内に移設
上記同じ
中山道からやや北側に設置
比江松林交差点に設置
摘要
「こ乃は満みちと」は木浜港
根元部分破損
野洲駅、開駅1891年以降に設置
工事中、土中から発見
同じ場所に⑥小型道標あり
道標② 道標③ 道標④ 道標⑤
江戸時代、参勤交代が始まる頃には、大名が宿泊できるように宿場も充実され街道も整備され、一里塚も築かれた。道が2本に分かれるところや曲がり角には、道標も立てられた。旅人は、安心して草津から守山、武佐、愛知川、…柏原と旅したのでしょう。
この往来の激しい街道沿いの要所、要所に、「錦織寺」の道標が揃えられていたのです。一地域のお寺ではないようです。参拝する人々が多く、錦織寺を目指して、訪れるヒトも多かったのであろうと推測されます。
大げさに言えば、約100年~250年前の野洲を代表するところは、「錦織寺」ともいえるのではないか…。道標を通して、江戸時代に旅をしたような世界に舞い込んでしまったようだ。
資料・調査にあたっては、野洲市歴史民俗博物館 行俊(いくとし)勉氏には多大な助言を頂ました。
この場を借りましてお礼を申し上げます。
参考資料
近江の道標 木村至宏著者 京都新聞社
東氏・遠藤氏と三上藩 銅鐸博物館
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)研究紀要 第11号
近江中山道 木村至宏など著者・朝鮮人街道を行く 門脇正人著者 サンライズ出版
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