高山右近列福式
2月7日、大阪城ホールで「高山右近列福式」がありました。
列福(Beatification)という言葉は聞き慣れない言葉ですが、カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人(Saint)に次ぐ福者(Beato)の地位に上げられることをいいます。
日本における列福式は2008年11月24日、長崎県長崎市の長崎県営野球場で初めて行われ、ペトロ岐部のほか江戸時代に日本各地で殉教した計188人が福者となりました。
右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として摂津国三島郡清渓村高山に生まれ、永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教の洗礼を受けました。
信長の時代、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、彼と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した。この後高山右近は高槻城主になります。
その後右近は荒木村重の支配下に入り、荒木村重の反乱後右近は再び高槻城主となりました。
安土城築城の時、滋賀県安土に安土セミナリオを作ります。本能寺の変の後、セミナリオを高槻に移します。
大阪城築城にあわせて大坂南蛮寺を建築。小西行長、黒田如水、蒲生氏郷ら洗礼を受けます。
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としましたが、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選びました。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。
秀吉が亡くなる1年前慶長2年(1597年)長崎で26聖人が殉教します。
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて加賀を退去しました。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しましたが、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病になり、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取りました。
列福式のミサは、ローマ教皇の代理、アンジェロ・アマート枢機卿がされました。
高山右近の列福式が秀吉ゆかりの大阪城ホールで行われることは、何か因縁めいたもの感じられますね。
式の中で、大阪のミッションスクール(被昇天学院、ノートルダム女学院、洛星高校、その他)の学生さんたちのコーラス、演奏が花を添えました。
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