多賀大社の「豆撒き」に寄せて
つい先ごろ正月だったのに、はや、節が変わる節分を迎えていた。
冬と春の変わり目には、「気分が落ち込む」「体調がすぐれない」など心身の調子を崩しがちになる。この邪気(悪鬼)払いとして、豆撒きが行われてきた。
「鬼は外 福は内」と語気を強めながら、部屋の奥から玄関まで順番に、悪鬼を家から追い出すかのように、豆を撒いたものである。かつて「立春」の前日には、どこの家からも、この声が聞こえてきた。母親が「早く、豆まきをすると、他の家の鬼がやってくる」と。そんな訳で、子供のころは眠くて仕方がなかった。でも、楽しみもあった。
年齢の数に1つ多く豆を食べる食習があった。加えて、両親の豆がもらえるのが、うれしかった。齢を重ねると、年齢の端数だけ食べ、残りは食べてもらえる特例があった。
また、敗戦後の日本はまだまだ貧しく、悪鬼が臭いを嫌うとして「イワシ」を食べたものだ。
昭和45年ごろだったか。
世界に例のない高度経済成長期に入り、今迄なかった「恵方巻」の慣行が、はやり出した。それから、「恵方巻」にいろいろな食材が巻き込まれ、「イワシ」から美味しい「恵方巻」へとかわって行った。自ずと柊鰯(ひいらぎいわし)の仕来りも疎遠となったようだ。
この恵方巻の食べ方だが、巻きずしを一本そのままで食べ、決められた方向で、しゃべってはいけないなど数々の決め事があった。母親は、この約束事を破ろうとすると、「破ったら、バチがあたる」だった。
だがその内、私は、恵方巻の方位に関係なく、切って食べて出した。年も重ね、豆も端数だけ食すようになった。この様に豆撒きの習俗の一部が崩れ出すと、瞬く間に、全ての仕来たりが無くなって行った・・・・・。
さて、古くから「お多賀さん」の名で親しまれる「多賀大社」午前11時/午後 2時の2回の節分祭へ仲間と、訪れる機会があった。
10時前には境内には人影も疎らだったのに、祭典の時間が近付くにつれて、人だかりになった。 境内に優雅な笛の音と力強い太鼓の音が響きわたると、舞台に三人の鬼たちが現れ、「鬼の舞」が披露された。
舞が終わると、特別仕立ての回廊で、きらびやかな衣装をした恐ろしい形相の鬼が、床を鬼棒で叩いたり、柵の上に乗り上げたりと、さんざん大暴れ・・・・・。この圧巻の「鬼の舞」・悪魔退散の仮面舞に心を奪われ、福豆・福餅何一つもらえなかった。
ならばと午後は、舞台の最前列に陣取り、今日は多賀大社で1日中、遊ぶと決め込んだ。
再び、赤い頭巾をかぶった福男・福女による特設舞台から豆撒きが始まった。今年還暦を迎えた年男・年女は、遠くに撒けないとの予測通り、帽子を差し出すと、「どっと」入れてくれた。
「独り占めは、福も逃げるだろう」と、お裾分け、福豆・福餅を各一だけ持ち帰った。残念だったのは、福扇・お種銭(たねせん)と引き換えてもらえる赤い福餅だが、手に出来なかった。
本殿での祭典、拝殿にて追儺の神事、拝殿内での豆撒き、そして境内への豆撒きと今なお古式にしたがって綿々と節分祭が、受け継がれていた。何よりも、湖東のへんぴなところに、福を求めて約5000人の参拝者で賑わっていたことに驚かされた。
節分祭が終わると、境内から蜘蛛の子が散るように人が立ち去り、辺りは、元の静けさを取り戻していた。
二十四節気に関わる伝統行事を見学して、豆撒きの原点に触れ、感慨深い一日を送ることが出来た。

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