明智越え~水尾の歴史探訪
日付:平成25年12月14日(土)
山名:京都亀岡「明智越え~ゆずの郷水尾」
コースタイム:JR亀岡駅 9:30 簾戸口(すどぐち)10:20 水尾の郷12:15~13:20 JR保津峡駅
歴史好きな山仲間が、『明智越え』を計画した。
「明智とは三日天下と揶揄されていた明智光秀のことか」と尋ねると。
「そうだ。光秀が平定した丹波をおとずれたい」と答えた。そうなんです。明智が通った簾戸口から嵯峨へ向かった道を辿ってみたいと言うのである。
戦国時代に登場した信長・秀吉・家康と言った武将は日本の歴史を築いた英雄として、今でも人気がある。それに反して、明智といえば、”本能寺の変”で主君を裏切ったことで悪名が行きわたり、後世まで悪役として、裏切り者と語られるようになった。
所詮、歴史とは、勝てば官軍負ければ賊軍である。表舞台に登場してくる人物は、その取り巻きの連中により、為政者にとって都合がよいように 歴史を編纂するものである。敗者を徹底的に叩き、残されている資料も少ない。現代でもそうだが、何事も強い者や最終的に勝ったものが正義とされるものだ。
明智公は、性格的に猜疑心が強く、気まぐれ、短気などの側面を持っていたようだ。が、初代丹波亀山城主として丹波亀山を治め、今日の亀岡の基礎を築いた人物であった。亀岡では、光秀の人徳を偲び、市民あげて亀岡光秀まつりが行われている。福知山音頭には 「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と詠われている。地元では今でも名君とされ、慕われている人物なのである。また本拠の坂本やその他ところでも密かに明智光秀を祀る寺社も多くあり、陰ながら人気は高かったようだ。
本能寺跡地に「明智光秀のものとされる首」が晒された時、逆に供養する京都市民があまりにも多かったため、秀吉が晒すことを取り止めたという逸話も残っているぐらいだ。
歴史とは、ちょっとずれていたら、いくらでも違った道を刻んでいることだろう。歴史は必然性の流れから合理的に進むものではなく、人の思い・行動などによって回り道をしながら、偶然性の組み合わせで出来上がっているものだ。
明智公についての言い伝えられた話として、光秀が本能寺で自害した信長の首を見つけられなかったのが、短命になったつまずきであった。さらに悪ことに、備中高松で戦っていた秀吉が、本能寺の変をいち早く知ったことだ。たまたま陣内に紛れ込んだ不審者をとらまえたところ、秀光が信長の死について毛利に送った密使であった。秀吉はこれ幸いとして、京・大坂の大名へ「いま京からの知らせがあり、上様も殿様・・・無事」とのデマ情報を送り、動揺を抑えながら明智の味方するのを防ぎながら、豊臣軍3万が山崎に舞い戻り、押し切られてしまった。この11日間で、山崎の合戦に敗れて坂本城への敗走の途中、落ち武者狩りの土民に襲われ非業の死をとげたのが史実である。
歴史で仮定の話は禁じ手であるが、明智光秀に何か一つでも二つでも有利な出来事が起こっていれば、味方もでき天下の形勢もどうなったことか。秀吉・家康へと単純に繋がって行かなかったかもしれない。
これを機会に、数奇な運命を辿ってしまった明智光秀をもう少し知りたいとの思いで出かけてみた。
JR亀岡駅北口を出て保津橋から、目の前に見られる谷合が目指す明智越えであろうと、口々にしゃべりながら登山口へと上り詰めた。ここまで、30分ほど、静かな街並みの入り組んだ道を通っていくのだが、手際よく引き連れてくれた。と言うのは、18号台風の影響を受け、亀岡市観光協会は「明智越えの保津峡ハイキングコースは土砂崩れ等の恐れがあり、危険なため、ご案内しておりません」との情報が流れ、下見を何回もして、ルートを覚えてしまったようだ。
保津橋から目指す明智越えを望む

今回辿る「明智越え」とはどのような言い伝えのある道なのであろうか、興味があった。
明智と言われている以上明智光秀公が通った道なのであろう。「越え」とは、ただ山道を越えていくだけでなく、越えてしまってはならぬ一線を越えてしまった道なので、そう呼ばれているのであろうか。明智光秀公がまさに、「ときは今、天が下知る五月哉」と決意して、丹波亀山城を出発して、大軍を率い、主君織田信長を襲撃した時に用いた道と思っていた。
簾戸口の道標の横に明智越えについての案内板があった。
「保津より嵯峨へ越える峰の道を明智越という。この道は保津町東方山麓要害の地を占めて南北朝の時代に頭をもたげる保津城の搦手(からめて)を登り口・・・・・・・・亀山に帰った光秀公は六月1日午後十時、1万五千騎の軍を三段に備えて、北より明智越(神越)唐橿越、老ノ坂越の三面より本能寺に向かったのである」と、私が思っていた通りの説明がされていた。
だが、後日判ったことだが、この説明文は『明智軍記』に書かれている内容である。1万以上の軍勢が短時間で隠密に行動するには三段に分かれたこの説が、今では無理もなく、最も有力視されている。また、この著者が不明だが、明智家中の末裔らしき事情通が編纂に関与している。
豊臣秀吉 に関する逸話をまとめた『川角太閤記川角太閤記』や『信長公記』では、丹波から京へ入る間道の老ノ坂越が本能寺に攻め入った道として定説になっていたのだが、大軍が一度に移動するのは無理との判断から三段説が浮上したようである。更に、襲撃とは関係のない、明智光秀公が愛宕山に参拝するための道であったとも言われている。いずれにしても、戦に負けた明智公のことは、どうでもよかったのであろう。だから、本能寺に攻め入ったルートさえ、諸説があり曖昧。この明智越えは今となっては秘められた道のようだ。
このハイキングコースは、しっかりとした表示板が整えられていた。明智越えに関わる銘板について記述してみた。
支尾根が立ち上がってきたところに「峰の堂」の説明板があった。
「峯の堂(むねんどう) 保津より嵯峨へ越える明智越えの眺望絶佳なる山の頂にこんもり茂る老木にかこまれた塚状の円丘を「峯の堂」と呼ぶ。
戦国末期の頃、叡山の僧兵は信長に従わなかったが、愛宕山はこれに反して明智光秀公の庇護のもとに多くの寺坊は焼討ちよりまぬがれ、信長の天下統一の推進力となっていた。
光秀公は文武の道に長じよく古文化を理解し、神仏庇護の立場をとり、暫々愛宕山に山籠したことは史実にも明らかなところである。
明智越は嵯峨に達する道であると同時にまた愛宕山に参拝する聖なる道ともなっていた。
光秀公は亀山城ならびにその城下町を整備すると同時に、この道をも騎馬武者や庶民がたやすく通行出来るように整備したものと考えられる。
公は天正10年(1582)5月27日愛宕山山籠の帰り道にも、この清和天皇をお祀りした峯の堂に本能寺攻め必勝の祈願を込められたといわれる。
6月2日その加護によって本能寺攻めには一応成功を収めたが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、無念にも小栗栖(おぐるす)の露と消え去られた心中に共鳴して、当「峯の堂」はいつとはなしに語呂相通ずる「無念堂」に変わったと伝えられる」。


穏やかな尾根道を辿り、最高点420mは登らず、巻くように進み下っていくと「土用の霊泉」の説明板があった。
「土用の霊泉 鐘撞堂三叉路より京都側へ少し降りた左側にこんこんと湧き出る清水を「土用の霊泉」と呼んでいる。
いかなる夏の暑い土用にも、このような高所にどうして清水が涸れないのか誠に不思議の感にうたれる。 光秀軍の本能寺攻めの際、これ霊泉に三七草(さんしちそう)をつけて蘇らせ、それを鎧の袖の下に秘めて進んだと伝えられている。
三七草は止血の効卓抜とか。この所より都の眺めは、天下の佳景ともいえよう」
平坦で緩やかな尾根道を歩きながら、時の移ろいを感じざるを得なかった。そして、本能寺を襲撃した時に用いた道であっても、なくてもよかった。むしろ、愛宕山に引き籠(こも)るための愛宕詣の道でもよかった。
明神峠の分岐点を右に進むと鉄塔があった。尾根筋に出ると展望も開け、水尾の郷が見え始めた。かなり急な坂道は18号の台風の爪痕なのであろう、道が崩壊して段差ができ荒れ気味になっていた。降り切ったところの植林帯を抜けていくと、水尾川にかかる丸太の橋が渡していた。
ゆずの郷歩道に出た。ここを右に向かって進んだ。大下りをした後の登りは辛いものだ。水尾の民家があるところまで、後ずさりしそうな急勾配の舗道された道路になった。水尾の集落に近づくと、今まで人に出合わなかったが、ザックをかついた観光客が店屋に並べられたゆずを求めていた。我々は集落を通り過ぎ、小学校の校庭まで上り詰めて昼食をとった。校庭には、多分ジュースの絞りかすなのであろう、籠に詰められ放置されていた。ゆず特有の香りが道辺りに漂っていた。
水尾の民家を望む

昼食後、JR保津狭駅まで、車道を下って行った。この駅は愛宕山の下山時使っているので地形が分かっていた。山奥に突如、立派な構造物が見えると駅である。両側をトンネルに挟まれたその駅のホームは、保津川に架かった鉄橋である。狭い谷合によくつくられたものだと、何時みても感心させられる。
明智越えの辿ったGPS跡

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