瑠璃堂を訪れた際の一枚の写真
2020年02月06日

瑠璃堂を訪れた際の一枚の写真

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nonio

• 野洲市

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  比叡山の瑠璃堂と一本の大杉のある玉体杉に思い入れがあり、仰木ゲートから奥比叡ドライブウェイを辿り、西塔へ向かった。

 というのは、湖東三山へ訪れた時だった。「金剛輪寺本堂が、信長の焼き討ちの難を免れたとか、西明寺にいたっては、山道の途中で自ら火を放ち、山上にある本堂への侵略を防いだ」と聞き、信長の蛮行が、頭の片隅に住み着いてしまった。追い打ちをかけるように、湖北では、農民が十一面観音を水中に沈めたり、土に埋めたりして、戦火から守ったことも知った。

元亀争乱(1570年から1573年)の近江一帯は、あれに荒れたようだった。中でも、比叡山焼き討ちは、信長の最も残虐な行為であった。

 日吉大社をはじめ叡山の堂塔四千五百舎ことごとくに火を放ち、焼け残ったものにも再び火をつけるなど徹底した破壊を行った。老若男女僧侶を問わず三千人を殺害した。でも、天下統一を目指していた信長にとっては、当時比叡山の僧侶・僧兵のみだれを、ただしかったようだ。・・・・・。

 さて、全山が灰燼と化したと言われているが、炎上を免れた唯一の建物がある。瑠璃堂(ルリ堂)である。なぜ現存したのかを詮索するより、出向いて確かめたくなった。

 西塔釈迦堂の左の細い山道を進んだ。標識がなく戸惑っていたところ、3人組グループに出会った。お互い、ルリ堂に行くことを知った。背が高いリーダー格の女性が、懸命に読図しながら、道路を横断して山手の方向に登って行った。私も家内も続いた。

 彼らはさらに上へと進んで行ったが、私等は、一旦釈迦堂に引返して、立て直してみた。10年ほど前に、何の予備知識もなくレイカ友人と訪れたことがあったので、以前の薄い記憶を辿ってみた。

 「釈迦堂から奥比叡ドライブウエイに出て、東塔の駐車場方向に少し行くと、右手に鋭角に入る道が瑠璃堂への道である」ことを思いだし、再び歩き出した。林道を進んでいると、3人組が意気揚々と下ってきた。「ほどなく進むと瑠璃堂がありますヨ」と励ましの言葉を残してすれ違って行った。奥比叡ドライブウェイから500mほど奥まったところが瑠璃堂だった。

  そして、どうしても訪れたいと思っていたところがあった。西塔から横川に至る峰道の途中に、一本の大杉・玉体杉である。

誰もいない真っ暗な山中で、仄かに明りが見える京都御所に向かって阿闍梨が、懸命に天皇の健康を懸命に祈っている姿を目にしたことがあった。映像が甦ってくるほど、忘れられないところであった。

 自動車で来た道を戻って、玉体杉へ赴いた。

 玉体杉を目指して尾根道を登って行くと、見覚えのある3人組が手をふっていた。思いもよらぬ出逢いに、知己の間柄のような親しみを感じた。今後、決して”出合う”こともないが、パチリとその姿を写真に収めた。

 「であい」という言葉だが、「出合い」の“合”という文字では、人とモノ、モノとモノに使われている。人が対象の場合では、「出会い」が適切であると思えたが、この文字は私の意図した意味を伝えていない。心情が移入したものに近づけるには、「出逢い」と言っていいだろう。 

 出逢いとは、意図も思考もない不確実な偶然とか、目的のある保証付きの必然とか、小難しい論議になりがちだ。こんな重たい話ではない。道端での出逢いは、あとでふと思い出すこともある、軽やかなものである。

 3人組も、私の行きたかった「比叡山瑠璃堂と一本の大杉のある玉体杉」を目指していたようだ。

出逢いとは、「ゆかりのあるものは、ゆかりの人に出逢う」ものである。

あたりは静寂そのもので、新緑がとてもきれいな瑠璃堂























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