中山道 野洲川常夜灯探し
中山道は、野洲小学校裏、行畑を越えて野洲川に向かって延びている。
野洲本町商店街沿いには、造り酒屋・老舗のお菓子屋などが立ち並び、当時の風情も僅かに漂い、昔日の面影がいまだに残っているところだ。
宇野造り酒屋付近

明治25年測量された野洲周辺の地図を眺めていると興味深い。
東海道本線野洲駅は1年前に開業したばかりだ。まだまだ、人々が移動手段としたのは、街道である。
家屋が立ち並んでいるは、この中山道であり、朝鮮人街道沿いだけで、ほかは、田んぼが拡がり、所々に集落が点在しているだけだ。
明治12年前まで、中山道と朝鮮人街道の分岐点にあたる行畑は、行合村と呼ばれていた。つまり、行き合う人の往来が多いことから、そう呼ばれたらしい。
ブルドーザーなどの建設機械が発達した現代では、日々町の様相が変貌していくが、人力に頼った土木作業では、何百年もの時代を遡ってもその歩みは、ゆっくりとしたものだ。
明治25年測量野洲周辺の地図

JR東海道線のガードを潜り野洲川橋のたもとにやってくると十輪堂があった。この境内に接待茶屋もあり賑わったようだ。
十輪堂ひとつの常夜灯

江戸時代、京都を立った旅人は「京立ち守山泊まり」と言われた。だが、守山宿で泊まれるのは上層階級だけで、庶民は野洲川を渡って永原、小堤、大篠原まで足を延ばしていたようだ。
中山道野洲川の渡しには、普段は4~500m仮橋が架かっていたが、大水のときは川幅が広がり650m以上に船渡しとなったことが伝えられている。
すでに、日暮れか夜にかかった旅人は、菜種油等を燃やした燈明が頼りだ。この常夜灯の光度は、ルックス計で測定不能のほの明るさである。しかし、野洲川を渡る旅人にとっては、闇夜でのこの明かりはどんなに救われたことであろう。

さて、十輪堂のひとつの常夜灯は、新川神社に移したと記載されていた。
早速、調べてみると、野洲川の下流には3ツの新川神社があった。野洲市野洲の新川神社、守山市立入町の新川神社、スしきり祭りで名高い守山市幸津川町の下新川神社である。この3ツの神社は暴れ川を鎮めるため司水神を祀った古社である。上新川神社の社伝によれば716年野洲川が大氾濫し、新しい流路をつくったので神霊を野洲と幸津川に分祀したと伝えられている。「野洲川風土記」
現在では、野洲川放水路がつくられ洪水がおさまったが、当時では、洪水を防ぐには神頼み以外手段を持ち合わせていないので、司水神を3ツも祀り、「野洲川が暴れないように」と願ったのであろう。
この3ツの新川神社に行ったが、似た灯篭が並んでおり、移設された常夜灯が判らなかった。その後、野洲市歴史民俗博物館 行俊勉氏のアドバイスにより、野洲市野洲の新川神社の鳥居の横に移されたことが判った。
幸津川町の下新川神社 守山市立入町の上新川神社


野洲の新川神社(移設の常夜灯)

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