登山者が押し寄せる藤原岳の福寿草
2017年05月06日

登山者が押し寄せる藤原岳の福寿草

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nonio

• 野洲市

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   2017年4月9日、いなべ市と滋賀県東近江市の境界にある1,140mの「藤原岳」へ出かけた。福寿草が咲く時期になると、大勢のひとが押し寄せてくる山である。

  「春には3日晴れなし」と言われるように、滋賀県はぐずついていた。が、太平洋側に面する三重県は晴れるとの予測に望みを込めて、無理気味だが出発した。

何はともあれ、春の短い命という意味合いから「春の妖精」とも人はそう呼ぶ福寿草に出会うには、出で立つタイミングが肝要。

 聖宝寺道・大貝戸道8合目で合流し、その先は頂上へ達する代表的なコースを辿った。9合目辺りから石灰岩が露頭しだすと、福寿草に出合えた。

 同時にガスってきた。天気予報は山嶺まで、保証してくれなかった。

 まだ冠雪した山頂付近は肌寒く、その上視界が2~3m濃霧中、避難小屋を目指して、続々と人・ひとが登ってきた。 室内はぎゅうぎゅう詰め、入りきらないひとは屋外にあふれていた。勘定してないが、福寿草の花の数より訪れる人間の方が勝っていた。 

 これほどの多くの人が、雪解けに花をつけ、夏まで葉をつけると後は地下で過ごす気ままな福寿草に出合うため、往復6時間半もかけて、何故でかけていくのか・・・・不思議でならない。

 今西弘子さんは、 花をどのようにイメージしているかを、現代日本の都市で生活する人に、10年ほど繰り返しアンケート調査を行っている。

 花は美しいものというよりも、やすらぎや自然としてイメージしている人の割合が多い。

また、花を求める「感じ」を尋ねると季節感が一番強く求められ、やさしい感じ、可愛い感じ、清楚で質素な感じ、素朴で気取らない感じなども比較的強く求められている。これに対して、豪華な感じ、はなやかな感じ、派手な感じは求められていない。

野の花の雰囲気のある花と、品種改良して手をかけて栽培された花とでは、野の花の雰囲気のある花の圧勝であった。

・・・・・

多くの人は、人間のほうが少し我慢しなければならないようなことがあったとしても、より自然な形で花や緑とつき合っていきたいと考えています。美しくデザインされて飾られた花よりも、少し不格好でも生き生きと元気そうに、自由に咲いている花のほうに安らぎと自然を感じはじめているようです。

 「花と人間の新しい関係を求めて」に記されていた。 現代の人達が苦労しても出向いてくる気持ちが語られている。同感だ。

 では、人間はいつごろから花への関心や興味を持つようになったのであろうか・・・・。

 花と人間の関係は6万年以上も前のネアンデルタール人が死者に花を手向けたことに始まるとされている。シャニダールの洞窟遺跡に埋葬された人の遺体の周りに多く花粉が発見されたことによって死者に手向けられた花であったと言われている。この時以来、人類は花が安らぎを与えてくれるものとして、意識し始めたようだ。

 ところで、山野で人を惹きつけるために、花が大きかったり、色が多様であったり、場合によっては香りを出したりしているのであろうか。

そうではない。目立っているのは、主に昆虫に対してである。

 花と昆虫の関係は古く、木の樹液が固まり 化石化した琥珀に閉じ込められた1億1000万年前の昆虫と花粉が発見されたことで、ハチが受粉に一役買うようになったのは約1億年前と言われている。

 花は蜜を提供して昆虫に受粉をしてもうため、昆虫に気に入れられるよう形・姿に変化させ共進してきのだ。この関係は、恐ろしいほどの歳月が費やされている。

 そこに割ってはってきたのが人間である。

人間と花の関係が築かれたのは、時間経緯からすると、ほんの昨日・今日の話である。

それも、人の身勝手な”癒し”と言うのか新たな視点から花と人間の構図が、新たに出来上がってきたのだ。

 自然界に存在している昆虫も人間も生物と言う括りでは同じである。だから、花をみて、昆虫も人間も同じような感性を持ち合わせているのだろう。私事だが、一鉢だけ

風ラン

を手元で育てたことがあった。花が咲くころ、夜々、可憐な姿で芳香を放ち魅惑されたと感じたことがあった。いずれにしても、花は、昆虫だけにとどまらないで、人類まで魅惑してくる不思議な魔力を持っているようだ。花は、昆虫的共進だけでなく、将来必ずや、人間も巻き込んだ新たな進化が生じるだろう・・・・。

  ゆっくりと福寿草など自然を味わうには

滋賀県側の茶屋川を遡行し、西尾根の秘境ルートで藤原岳を目指しては・・・


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