天下分け目の関ケ原合戦
2014年08月31日

天下分け目の関ケ原合戦

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nonio

• 野洲市

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 日本史上空前の関ヶ原合戦は、徳川家康の東軍と石田三成の西軍合わせて15万以上の兵が激突した。この戦いによって、豊臣から徳川の時代へと動き出した。きりがよい1600年。
関ヶ原と言えば、古代より、近畿を守る3ツの関所の一つが置かれていた。時を逆戻ること672年に発生した壬申の乱の際、東山道に不破関が設けられた。「関」の西が関西であり、東が関東である境目である。どうしたものか、ここで東軍と西軍が戦ったことは、歴史の不思議さを感じる。

 午前8時、東西1.6km・南北1.2kmの狭い盆地の中で、関ヶ原の戦いが始まった。深い霧が覆う中、一進一退を繰り広げ、どちらが勝ってもおかしくない状態が正午まで続いた。午後1時、西軍の小早川秀秋が裏切り、戦況が一変、西軍の総崩れとなった。午後2時頃、三成はかろうじて北国街道を一路、伊吹山麓へ敗走した。三成の長期戦の計画に対して、あっさりと家康の思惑通りに終焉した。
 これを契機に、幕藩体制が出来上がり、日本にとって良かったのかどうかわからないが、息苦しい鎖国へと導かれていった。

 この天下の分かれ目となった地に赴き、歴史の分岐点となった、石田三成が陣取った笹尾山であり、小早川秀秋が陣取った松尾山を自分の目で確かめたかった。

 笹尾山には「大一大万大吉」という合わせ文字の旗を見かけた。これは、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味らしい。
 この文字を初めて見たのは、石田三成の生まれ故郷、長浜市石田町であった。この町に一歩入ると、地元出身の手柄を立てた英雄として、「大一大万大吉」の旗がたなびいていた。「産湯の井戸」では、ここで生まれて、育ち、天下を左右するまで上り詰めた三成に、今でも町を挙げて後押していた。関ヶ原の戦いの首謀者として、悪人扱いは、微塵も感じないところであった。
 三成のイメージは、徳川政権を正当化するために敗軍の将として貶められてきたのは仕方がないことだ。が、司馬遼太郎によってその評価がかわってきた。家康率いる東軍と対等に渡り合う軍を集め、義を重んじた決戦の主人公なのである。

 さて、三成の陣営のある笹尾山は、家康の陣営桃配山を地勢の利から見下げるところにあった。さらに、南宮山、松尾山、天満山など戦いの一部始終を見通せる地点であった。

 鶴が翼を広げたように兵を並べた「鶴翼の陣」とよばれる理想的な布陣の西軍は善戦した。こう着状態の中、三成は、大阪城から持ち込んだ秘密兵器大筒を敵陣めがけて打ち込んだ。敵のひるんだ時に、すかさず、反撃開始の狼煙を西方の空に上げた。
 松尾山の秀秋・南宮山の毛利秀元らは、総攻撃に加わる手筈になっていた。だが、動いたのは石田・小西・宇喜多軍だけ。 三成の目算が大きく狂い始めた。 未だ参戦せずにいる秀秋の軍勢一万五千の兵が山から下り、背後の毛利ら二万八千の兵が東軍を衝けば西軍の大攻勢に転じられる計画であった。家康の老獪な罠が仕組まれていることなど、思いも及ばなかったようだ。

石田三成の陣営笹尾山から家康の陣営桃配山を望む

 白煙の成り行きを気に掛けていたのは、西軍だけではなかった。家康も焦っていた。 実は、秀秋は、すでに家康と話し合いが出来ており、寝返ることが確約されていた。また、毛利方の吉川広家と家康との間に戦闘に加わらないという密約を結んでいた。

 中々動こうとはしない秀秋に対して、家康は「あのこせがれめ、見あやまったか」と怒りの形相をして、秀秋の陣にむけて威嚇の鉄砲を打ち込め、と最後の賭けを行った。時間がたてば、約束を破り、側面と背後から挟撃されることを恐れての決断であった。

 松尾山は全山が鳴動したかのように一斉に大谷陣に向かって動き出した。小早川軍に呼応して次々と裏切りの連鎖が始まった。この様子を見届けて、関東軍のエイエイオウと三度繰り返し、味方の士気を鼓舞したと伝えられている。石田軍が壊滅した。

小早川秀秋が陣取った松尾山から笹尾山を望む



 時々刻々戦局が変化する野戦に長けた家康での芸当であった。因みに元々、家康は鳴くまで待とう ホトトギスと言われるように、熟するまで辛抱強く待つ武将と思われているが、本来の性格は短気である逸話が残されている。この一か八かの賭けにでた家康に勝利を引き込んだようだ。

 一方、律儀な三成には所詮できない話だが、三成が動かぬ秀秋陣に向かって、大筒をぶち込む指示をしていたら大谷陣でなく、関東軍へとなだれ込んでいた、とあらぬことを思った。
 また、毛利軍が動かなかったのは「広家が動かないので、南宮山に布陣していた毛利秀元は吉川が邪魔で山を下ることすらできない」など、何だかんだ言っているが、蹴散らして動けばどうなっていたことか・・・・。

 秀秋は合戦後、数年してこのときの裏切りが心を苛み、酒量が増え、21歳早死にしたといわれている。また、そもそも、毛利輝元は家康打倒の西軍の総大将である。しかし、大坂城から出撃することなく本国安芸へ帰ってしまった。その結果、本国安芸をはじめ七ヵ国を没収され二ヵ国の領有しか認められなかった。

 男子たるもの、子々孫々まで、裏切り者の汚名をきせられたり、「宰相殿の空弁当」など揶揄されないように。

 この関ケ原に何度か足を運んだ。そして関ケ原合戦の書物を開き思いめぐらした。歴史をいじくることは、せんないこと。やはり、人心術にたけた徳川家康の技量・うつわが、義を重んじた石田三成より一枚上であった。

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