京都駅の構内むき出しのトラス構造
京都鉄道博物館の写真撮影を行うにあたって、京都駅の中央改札口を集合場所になった。
4代目となるこの駅ビルは、完成して21年経つが、いまだに斬新なデザインだ。 とてつもなくデカいコンコースを大勢の人が気ぜわしく通り過ぎていく中、天井を見ながら時間待ちを紛らわせた。

最近では、誰もが多少見慣れたのか、
あまりにも近未来的なデザインで京都の伝統的な景観が台無しになった。
もう少し、千年の古都に似つかわしい落ち着いた駅舎にできなかったのでは。
京都の持つイメージにそぐわないな~。
など、やいやい言う人も減ってきている。でも。私は、縦と横に幾何学的に組み上げられた「むき出しのトラス構造」の天井は、いかかがのものかと、永らく違和感を抱いていた。
さて、この京都駅の喧騒な場所でも、自分だけの空間と時間の流れにしたれるものである。色んなことが頭に去来した。
レイカディア大学の友人と京都駅に近い東寺に訪れた時、西寺までの距離がどの位あるのか歩数で調べたい、と言うので、つき合ったことがあった。私にとっては、「西寺跡」として史跡に指定されているところに行って、どんな意味があるのか分らずまま、歩数を勘定した。 友人は羅城門を挟んで、東寺と西寺は同歩数であったと言っていたが、私もほぼ同じ数であった。
友人は、一言。「もし、西寺が現存していたら、圧倒的な高さを誇る東寺の五重塔が、二つ並ぶ」と言っていた。その後、機関庫や鉄道車両基地のある千本通りまで、足を延ばした。 平安京を鎮める官寺として、右京・左京それぞれに、東寺・西寺が設けられ、天皇の居所である大内裏へと朱雀大路が南に向かって伸びていたところである。
この辺りが、千年に渡って日本の首都であった京都の入口であったのだ。この平安京の入口の奥行きと広がりを、歩きながら分かったことを思い返していた。
また、仲間に連れられて京都の街をあっちこっち散策したこともあった。何処に行っても、南北と東西に直交する「碁盤の目」であった。
京都検定を目指していた仲間は、「当時の平安京の街は、南北路に朱雀大路を中心に、西側に四本の大通り、東側に四本が設けられた。東西路にも一条、二条、三条と九条、八等分して大通がつくられたが、その名残が、いまだに残っているのだ。この大通りの間には、三本の間道も設けられ、 元京都の街並は、縦33本横39本の碁盤の目が直交する街路網で出来上がっていたのだ」と、得意げに喋っていたことを何気なしに思いだした。
部材同士がつなぎ合わされた巨大な鉄骨造を眺めながら、どうも、長岡京から京都に遷都され時の平安京が基盤になっているのではないかと、この時、朧気ながら気づき始めた。
永年釈然としながった「むき出しのトラス構造」には、京都の始まりである歴史・文化が込められていたのだ。設計者の思慮深いコンセプトに脱帽した次第である。
しかしながら、円錐形の先端から伸びる「足」を伸びたロート型の2つのナゾめいた造形物は、私にとって、どうしても、つしっくりこなかった。
一見、ニューギニア島などの森林地帯にみられる樹上家屋のように見えた。が、京都は歴史あるお寺が多いことから、極楽浄土のような風景を醸し出す蓮の花がよく似合うので、この造形物はハスの花托のおしべに似ていると思え自ら納得させた。

芥川龍之介の処女作である
「羅生門」
のおぞましい世界もよぎっていた。 11世紀の頃の今昔物語の世界であるが、この京都の玄関口近くで、起こっていたとは・・・・・・。
色んなことが頭の中を駆け巡っていたが、ふと我に返った時に、仲間が集まっていた。
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